第二次大戦を生き延びて③
(2) 空襲と機銃掃射の恐怖
広東はその後もたびたび空襲を受けており、1942年北回帰線の通る港町の汕頭に移ったときは空襲がなくホッとしたのだが、それもつかの間だった。
1944年,戦争の最終段階に入ると、週に2-3回の空襲が始まった。目標は日本軍の軍事施設だが、幼児、子供を含む一般市民も爆撃と機銃掃射でたびたび殺されていた。戦争での殺人に例外はないのである。
空襲が始まると、私の家族は、自宅一階の半地下式防空壕に退避する。天井と壁は厚さ30センチの鉄筋コンクリートで覆われ、上には10数段の土嚢が積まれていた。入口は頑丈な鉄の扉で、衝撃でも開かないように内側から太い鉄のかんぬきをかけるのだ。直撃弾でなければ安全だということだった。日本軍が占領する前は英国領事館だった建物で、日本空軍の爆撃に備えて作られた防空壕だが、これだけ頑丈なのに、5-600メートルの至近距離にある兵営に500キロ爆弾が落ちたときは、その衝撃でブランコのように揺れた。近くに落下する時に爆弾の後尾にある風車の出す”カラカラ”という不気味で乾いた音に、震え上がったものだ。
屋上には、英国国旗のユニオン・ジャックがペンキで描かれていたが、父はこれをそのまま残しており、絶対に誰にも言うなと固く口留めされていた。商社の海外支店責任者の自宅は、在支陸軍将校たちの息抜きの場になっていたのだろうか、家には陸軍の将校らが絶えず出入りしていたのである。幸い地上からは見えないが、憲兵にでも知られると何が起こるかわからない。汕頭在留邦人の献金による戦闘機がお礼に飛来し汕頭上空で旋回した時は、気が気でなかった。敗戦の年に汕頭を引き揚げるまで、この秘密の件では怯え続けだったのである。
空からの攻撃で最大の恐怖は、機銃掃射である。爆撃は至近距離の直撃弾でなければ安全だが、ひとたび低空で飛んでくる戦闘機に襲われたら、ドーベルマンに狙いを付けられるのと同じ、それで最後となる。
学校では、飛来する飛行機が自分の方に来るのか他の方角へそれるのかを、人差し指で識
別する方法を教わっていた。人差し指を立てて飛んでくる飛行機を隠す、数秒後、それが指の真上に現れたらまっすぐこちらに向かってくるのだ。走って物陰に隠れなければならない。
たまたま自宅の庭にいたときに戦闘機が飛来、指を立てる暇などなく辛うじて防空壕に飛び込み一瞬の差で助かったことがある。庭に無数の機関銃弾の薬莢が散乱しているのを見てぞっとした。機銃掃射の”パキパキ”という余韻のない乾いた音は、悪夢の最たるものだった。