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必要悪と、絶対悪

映画には大抵、主人公と対立する悪が存在していると思う。その考え方が日本とアメリカで差があるようで。アメリカ映画はヒーローという絶対正義とヴィランという絶対悪がいて、最終的に絶対悪を絶対正義であるヒーローがぶっ倒して終わるのだが、日本の映画は絶対悪というものがあまりないようだ。悪者にも悪者にならなければいけない理由があって…、辛い過去があって…、同情すべき点があって…、とヒーローがヴィランをぶっ倒すだけでなく、説得して更生させるであったり、過去のトラウマを乗り越えさせたりだとか、絶対悪を否定し、それが必要悪であったとする考え方が根底にあるようだ。僕は邦画と洋画の違いは考え方の違いだけではないのだと思う。例えばゴジラ、邦画であっても絶対悪は存在しているし(ゴジラは災害のメタファーであるとされているが…)、では何の違いなのかというと、敵が人であるかどうかだと思う。洋画はお金も邦画よりかかっているし、壮大な物語を描く傾向にあるので、アメコミ映画のように敵が神様であったり、感情を持たない異物であることが多い。悪者も意思や意見があれば同情の余地があるということになると思う。もちろん、世界征服を目論む絶対悪だっているが、そういう敵は目論めるほどの自信のもととなる超能力であったり、秀でた何かがあるはずだし…つまり何が言いたいのかと言うと敵が人間なら絶対悪というのは存在しないと言うことだ。犯罪を犯した誰かがニュースで報道されると、「生きている資格がない」などと非難する人もいれば「そういう家庭環境だったんだよ」と同情する人もいる。したことは悪。けど悪だけじゃない側面もある。それが人間なんだと思う。その人がしたことは良いのか、悪いのか、その二択で判断するのは裁判官の仕事。その裁判官気取りの人が多すぎると思う。要は物事を一面でしか捉えられない人が多すぎるということだ。物事には、人には、表裏だけではなく、もっと立体的な側面がいくつも存在していることを忘れてはいけない。誹謗中傷は、人を一面でしか見れていない視野の狭い人だと思うようになった。決めつけや偏見は視野が狭い証拠。余裕がない証拠。対岸の火事をどうでもいいと思える余裕が僕にはないけれど、一方的な主観でしか捉えるのではなく俯瞰して捉えられるような視野の広さは持っておきたいと、そう思う。

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