知について語るとき、我々は何について語るのか
——戸間君もきっといつか、色んな知識がつながる日がくるよ。
彼女の極めて率直な物言いに、僕の世界はまるでひっくり返されたかの如く渦巻いた。襲い掛かる混沌の波に負けないように、僕は一言一言記憶に刻み込むかのように繰り返す。
——色んな、知識が、つながる、日……。
彼女は嬉しそうに大きく頷いた。僕を見つめる彼女の瞳は、好奇心できらきらしている。その肉付きのいい身体と上気した頬は、かの巨匠グスタフ・クリムトの『エヴァ』を彷彿とさせた——豊満な身体の曲線美、薔薇色に赤らんだ頬、力強い眼。彼女の言葉は、禁じられた知恵の実を口にし、世界のすべてを知ってしまった直後のように、強い興奮と温かい期待に満ち溢れている。これから楽園を追放される未来など、彼女には到底想定しえない。
でも、偉大なる神が、彼女をして、かかる壮大な発言をせしめたのには訳がある——彼女には学位があって僕にはない。世の人間の大多数(それでも世の上澄みであるには変わりないが)にとっては、学位の意味など「大学校」のブランド価値に吸収された形でしか感得しえないが、彼女にはその不都合な事実を補ってあまりあるほどに、高等機関で専門教育を受けたことについての自負がある。
彼女の主張は、はたして、社会学的な事実に係る主張なのかもしれない。
知は、およそ社会的な構成物であるから、ある分野で構築された手法がほかの分野においても輾転流通され、その社会の構成員の無意識下に根を下ろし、その原型を構築していく。統計学的手法が社会科学を席捲したように、行動主義的アプローチが人文学に火種を巻いたように、トレンディーな方法論さえ見抜ければ他分野を渡り歩くことなど造作ない、と。そう、彼女は主張するのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。最高学府で理論物理学の方法論を転用した物理経済学を修めた彼女なら、かような主張をしてもおかしくはない。
——いや、待てよ。
あるいは、彼女は神経学的な事実に係る主張をしているだけなのかもしれない。
単純接触効果によってシナプス結合が強化され、複雑な神経回路が構築される。こうした極めて唯物論的な脳現象が、こと主観面においては有機的な知識の結合として、一人称的に感得される。かかる神経過程の三人称的視点は進化論的過程において選択されなかったから、主観面として立ち表れる知識の有機的連関は、我々にとって極めて特殊かつ個人的な経験として位置付けられるのだ、と。いや、きっとそうだ。研究機関で認知科学と進化生物学の基礎論を修めた彼女なら、かような主張をしてもおかしくはない。彼女の主張は、その背後に「意識を神棚から降ろそう」とする、極めてアドヴォカティブな提言を宿しているのだ。
——いや、もしかすると?!
ともすれば、彼女の主張は、脳神経学的に信用に足る知見と整合的な事実認識に依拠しつつも、意味論の段階においては存在論と同型の還元主義を認めない、極めて穏当な現代哲学的思想に根差したものなのかもしれない。彼女は意味論段階における知の全体論的性質を見抜いている。単に一般国民と同等の学問の自由(日本国憲法23条)を前提に大学の自治の反射としての成果物を享受するに過ぎない一般の学生たちと違って、大学の自治の積極的な担い手であった彼女なら、分析哲学や言語哲学の研究成果に通暁していてもおかしくはない。
——いや、まさか……?!
いやしくも、彼女の主張はその軽薄な文体とは裏腹に、逆説的に知に固執する僕の浅ましさを剔抉しているのではなかろうか。インテリの義弟の本質に気づくことなく心酔し、畢竟自らの人生を棒に振って絶望するワーニャ伯父さんを優しく諭すソーニャのように、彼女もまた、不甲斐ない人生に喘ぐ僕に、「あなたは一生涯、嬉しいことも楽しいことも、ついぞ知らずにいらしたのねえ。でももう少しの辛抱よ」と一抹の希望の光を見せようとしているのかもしれない。ロシア文学に明るく、学部時代から文学研究に勤しんだ彼女が、ドストエフスキーやトルストイの陰に隠れて本国では決して知名度が高いとは言いがたいアントン・チェーホフの作品の神髄を心得ていたとしてもおかしくはない。
嗚呼、なんてことだろう。彼女の言葉はあらゆる解釈学的営みに開放されながらも、その根底には、世界の真理に通底する一定のモチーフが秘められている。彼女のふくよかな身体をめぐる毛細血管の隅々まで、人類の集合知が宿っているのだ。
でも僕には、そのどれ一つとして、一切知りえない。
僕はそれが、単に僕に学位がないから、という社会的事実に還元可能な理由によるものだと思っていたけれど、彼女において、その考えは明白な誤りだったのだ。彼女は、僕を今もなお毒し続けている、この途方もないルサンチマンの存在を見抜いている。そしてパウロの有名な一説を引いてこう続けるだろう。
——知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げる(コリントの信徒への手紙一8:3)。
世界がゆっくりと瓦解していく中で、僕はひっそりと、息を引き取った。
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