Don't Cry for Me Argentina アルゼンチン空手集成|Report
戦前の移住者の中の空手家
アルゼンチンへの集団的な移民は、1908年に日本からブラジルに向けた移民船の笠戸丸の780人のうち、160人がブエノスアイレスで下船したことが端緒です。移民数が増え始めるのは1913年以降ですが、ブラジル、ペルーに比べると数は圧倒的に少ないものでした。ただし、これらの国からアルゼンチンに流れてくる移住者が少なからずいたようです。
移民の中には沖縄で空手を稽古していた人が含まれていたことは、数々の移民誌や他の文献等で触れられています。アルゼンチンでは、1927年移民の安里亀栄、1930年移民の安里亀栄、1931年移民の知念善一、新里智純らが初期の事例だと調査で判明しました。ただし、それよりも以前に空手家が移住していた可能性は十分に考えられます。
知念善一は1903年生まれで、大城朝恕の指導を受けた空手家だと伝わっています。1931年に移住し、以後はクリーニング業に従事します。昭和12年に玉城正光と組手のデモンストレーションをしている写真があります。「知念善一杯」という空手大会が行われていたようで、遠山寛賢の弟子だった土谷秀男との交友関係も含めてさらなる調査の余地が残されています。
新里智純(与那原町出身)は1931年にブエノスアイレスに移住しました。『在アルゼンチン日系人録』(1968年)によると趣味が空手と書かれています。新里智純のご子息により、智純が沖縄在住時に撮られた写真をみせていただきました。この写真には宮城長順が写っており、移民空手家が移住前に空手を稽古した風景として貴重だと思われます。
仲村渠恒栄は1909年、名護市大兼久生まれで、1913年に弟・恒郎の呼び寄せで移住しました。那覇市警察署出身で、空手と剣道を得意としました。移住後はやはりご多分に漏れずクリーニング業でした。息子の恒夫も武道家であったようです。
アルゼンチンでの初期の空手公演
1932年6月14日、コルドバ市の日系人支部設立祝いで安里亀栄が空手とサイを演武しました。これがアルゼンチンでの最初の空手の公開演武です。
1935年(37年?)に、安里亀栄・亀永の兄弟がコルドバ市のヒムナシア・エスグリマ体育館で空手、棒術、サイの演武をしました。これは沖縄系人や日系人だけでなく、アルゼンチンの一般大衆にも公開されたものという意味では嚆矢となります。新聞記事が残っています。
このときの主催者である資産家ノーレスは、「ロス・プリンシピオス新聞」の社長の息子で、妻は日本人女性と1940年代に外交官として神戸で働いていたアルゼンチン人男性との間の娘だということです。コルドバ日本人会元会長のホシ・キッペイが司会・解説及び通訳を担ったことがわかっています。
1936年12月6日、ブエノスアイレス州ルイスギジョンで沖縄県人の公式行事があり、野外で空手演武が公開されました。出演者は安里兄弟の他に知念善一がいました。写真が残っています。
脱線しますが、その場に藤田という画家がマデレインというモデルと出席していたそうです。演武が終わった後に感動したマデレインが「亀栄にキスして、ヘソが見えるぐらいスカートをめくりフレンチカンカンを踊った」という出来事が記録されています。そのとき藤田の絵画が抽選の景品として寄贈され、集まった資金は日本人結核養護施設に贈呈されました。当選者がいなかったため、その絵画は日本人会の資産となったそうです。
プライベートな空手稽古の写真として、安里亀栄と知念善一が巻き藁を突いている写真、組手を行う写真などが発見されました。おそらく1930年代の撮影ではないかと考えられます。
比嘉仁達は1938年に義父に呼び寄せられアルゼンチンに移住し、クリーニング屋で働きました。若い頃から空手を学んでいましたが、野球も得意だったそうです。1940年にブエノスアイレス郊外のブルサコの映画館で演武を行ったのちに、子どもたちへの空手指導を始めました。将来同じ道を歩むことになる二人の息子、ベニトとオスカルもその中にいたそうです。
このように戦後の本土空手の講師派遣や大学OBの渡航による空手指導が始まる前に、沖縄空手は移民を通じて世界に展開されていました。
アルゼンチンにおける空手普及の特殊状況
20世紀の初頭、日露戦争での海戦に備え、日本海軍は、アルゼンチンが当時イタリアに建造発注し、ほとんど完成していた最新鋭装甲巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」を売却してもらいました。二艦はそれぞれ「日進」、「春日」と命名されて、日本海海戦で戦功を挙げました。これにより、日本とアルゼンチンは友好関係を深めたと言われています。
日露戦争での日本の勝利によって、日本を「西洋化した東洋」とみる論調がアルゼンチン国内で高まりました。こうした日本への関心の増大と日本の武道への眼差しには、一定の連動性が認められると藪耕太郎は指摘しています。
軍隊や警察の訓練に空手が取り入れられたのはこれらの状況と無関係だとはいえないでしょう。アルゼンチンで最初に柔道指導を行った福岡庄太郎は、ロサリオ市の警察及び警察学校の講師に請われています。安里亀永の市警察での空手指導、赤嶺茂秀の海軍と空軍での空手指導、仲里茂雄の州警察での空手指導は、背景に歴史的な日本との友好関係と、日本武道への興味があったからこそとも考えられます。
アルゼンチンではサッカーを中心とした私立の地域スポーツクラブが運営されており、弱い者の護身術として、空手が注目され、クラブ内に道場を持つ例があることは以前に書きました。また、アルゼンチンには『YUDO KARATE』をはじめ複数の空手雑誌が公刊されていた時期があるなど、空手や他の日本武道、格闘技への関心が比較的高いようです。
以上、敬称略
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