二人のKinjo 〜ハワイの沖縄空手の底流〜|Studies
沖縄空手の伝播に関する考察です。以前の記事👇の元ネタです。敬称は略しています。
はじめに
沖縄県の第1回海外移民は1899年(明治32年)の12月5日に那覇港を出航し、翌年1月8日にハワイのホノルルに到着した。沖縄を出たのは30人だったが、身体検査等で不合格になった者を除いて、最終的には26人が契約地のオアフ島エワに入植した。
このときの名簿に「金城」姓の人物を二名見出すことができる。金城珍善と金城亀である。実はこの二人が、のちに空手と呼ばれることとなる沖縄伝統の徒手空拳の使い手であったことはあまり知られていない。
空手が海外に伝播したのは戦後のことであり、本土の空手流派や大学空手部OBが中心になって普及活動を行ったと一般的には理解されている。しかし、それより半世紀以上も前に、空手発祥の地・沖縄から直接海外に空手が広がっていた。本稿ではこの事実を追いかけてみたい。
金城珍善と空手
金城珍善は1873年(明治6年)生まれで、数えで28歳のときに移住している。彼が空手を修得していたことは、初期のハワイ移民の苦難を取材した1959年1月13日の琉球新報の記事から明らかである。
記事は珍善へのインタビューで構成されているが、それによると、入植地のプランテーション農作業の監督官からいわれのない暴力を受けた際に空手術で対抗したという。以下、そのくだりを引用する。
では、珍善はどこで空手を学んだのであろうか? 彼は空手が学校教育に取り入れられる1905年以前の世代であるから、尋常中学校や男子師範学校などで習った空手でないのは間違いない。
珍善は那覇区東(現在の那覇市東町)で育っている。那覇手の地元といえる地域である。那覇手の中興の祖ともいえる東恩納寛量が1853年生まれであるから、珍善とはちょうど20歳差である。1866年生まれの義村朝義が22,3歳頃に東恩納に師事していたというから、義村より7歳下の珍善が東恩納の門下であってもおかしくない。いずれにせよ、学んだ空手は那覇手であったと推察される。
なお、珍善の長男である珍榮は、珍善がハワイへの渡航中に生まれ、おそらく10代の頃に親の呼び寄せでハワイに移住する。ハワイ在住の空手史研究家であるチャールズ・C・グッディン氏によると、珍榮は那覇で学業を修めている頃に、東恩納寛量の弟子にして、剛柔流の開祖となる宮城長順の下で空手を学んでいる(注1)。
また、日系新聞の洋園時報社を経営していた1934年、その宮城をハワイに招聘している。宮城は約8ヵ月滞在し、ハワイの各島で空手の講習会や演武会を開催しているが、これは屋部憲通(1927年)、本部朝基(1932年)、東恩納亀助(1933年、陸奥瑞穂が同行)に次ぐ、沖縄の空手家のハワイ来訪及び海外での空手普及の足跡である。
金城亀(里太郎)と空手
金城亀は1869年(明治2年)生まれ、南風原間切(現在の南風原町)津嘉山の出身、数えで32歳のときに移住している。松村宗棍の弟子だとされており、郷里では「武士小(ブシグヮー)」と呼ばれ、沖縄角力でも実力者であった。沖縄県尋常中学校の頃には漢那憲和らとストライキに参加し、退学処分を受けている。
本部朝基とは1歳違いで、亀が松村門下であったことから二人は面識があった可能性が高い。というのも、1932年の本部のハワイ訪問の際に面会していることが、ハワイ移民二世の空手家である宮城トーマス繁が本部に宛てた書簡から読み取れるからである。本部のハワイ行きは玉那覇長松という人物(首里平良町出身)の招聘によるものだが、本部と玉那覇の接点は現時点では確認できておらず、玉那覇は出資しただけで、実際に本部に来訪を要請したのは亀である可能性も残される(注2)。
亀は残念ながら本部の来訪の翌年に死去しており、彼と空手の関わりを示す足取りは残されていない。松村門下であるとしてもかなり晩年の弟子である。本部の『私の唐手術』に、「ごく近世になって、大城、金城、<中略>等が著名な武人であった」と当時知られていた空手家の名前が列挙されているが、この金城(かなぐすく)は糸洲安恒、安里安恒よりも前に挙げられており、当人ではないだろう。一般の空手関連文献にも金城亀の名前は見出せない。
なお、亀は1904年にいったん帰国し、名を「里太郎」と改めている。経済的に成功していたらしく、1912年にも母国観光団の一員として日本訪問しているらしい。
空手普及はあったのか?
二人の金城がハワイで空手を指導したかと問われれば、「わからない」と答えざるを得ない。まず二人の空手の実力が未知数である。沖縄での稽古の期間や頻度がわかればある程度は推測もできようが、それすらも不明である。したがって、人に指導できるような技術体系を持っていたのか定かでない。
そもそも二人は、空手指導ではなく金儲けや立身出世のためにハワイに渡ったのである。彼らは民間企業(盛岡商会)による契約移民だったが、3年間の契約期間ののちは、両者とも仕事を変えている。ハワイ社会で成功するためには本業に集中せざるを得ず、ハワイで空手を稽古する余暇を持つことができなかったとも考えられる。
なお、沖縄の空手家が空手指導を目的として外国に移住するのは戦後になってからである。それまでは沖縄と同様、空手指導を生活の糧にすることを憚る風潮があっただろうと思う。
また、時代背景も空手普及を後押しする状況にはなかった。海外に広まった日本の武道としては柔術・柔道のほうが先輩であるが、そのJiu-Jitsuにしても、二人の金城が海を渡った1900年前後にようやくアメリカ本土に紹介され始めたにすぎない。
たとえば、講道館四天王の山下義韶がときのセオドア・ルーズベルト大統領に柔道指導を始めるのが1904年であり、それより2年前に同じく大統領に柔術を教えたジョン・J・オブライエンが、日本から帰国してハーバード大学で柔術公演を行ったのが1900年である。世界を驚かせた日露戦争の勝利(1904年)も同様である。
つまり、アメリカにおいて「武士道」や「東洋の神秘」という観念がまだ浸透していない頃で、極東の小王国発の空手が孤軍奮闘するには酷な状況だった。
さらに言えば、1879年の琉球処分で沖縄県となってまだ10年ほどである。日系ハワイ移民の間でも沖縄人への差別視があったとされ、日系社会に対してもおおっぴらに沖縄固有の文化を主張しにくい環境であったことは想像するに難くない。
そう考えると、二人の金城がハワイに移住した当時、対外的に空手指導を行うことは難しかったであろう。しかし、自主的な空手の稽古を続けていた可能性はあるし、ひょっとすると沖縄県系人に対するいわば内輪の指導は行っていたかもしれない。というのも、グッディン氏の研究によると、初期のハワイ移民の中には空手を嗜む者が複数見出せるからである。彼らの出身地は首里・那覇ばかりではなく、渡航前に沖縄で空手を修得していたのか、それともハワイに来てから同胞に空手を習ったのか判然としない。
前掲の宮城トーマス繁(1915年生まれ)は、クニヨシという人物をはじめ、盛小根靖雄(1881年生まれ)、浦崎政致(1884年生まれ)らから空手を教授された・試合をした経験がある。彼は二世であるためハワイで空手を学んだことは確実だが、こうした隠された師弟関係が移民当初から脈々と受け継がれていたと考えるのは、まったくの荒唐無稽な話というわけではないだろう。
おわりに
金城珍善と金城亀――彼らに代表される沖縄からの海外移民の中には、空手を実践した者が含まれている。このような知られざる空手家が実在し、20世紀前半にすでにその一部が海外で空手を指導していた(=沖縄の身体文化を海外に広めていた)と考えることは、沖縄空手の歴史にとって何物にも代えがたい誇りである。たとえその普及の試みがさざ波に終わっていようとも、輝きは色褪せることはないと信じる。
<注釈>
「本部流」(日本空手道本部会 本部御殿手古武術協会)の本部直樹氏より、泊士族に新参姜氏金城家というのがあって、名乗頭は「珍」であり、金城珍善は泊士族、すなわち松茂良興作の弟子だった可能性も考えられると、以前にご教示いただいた。
同じく本部直樹氏より、その他の接点の可能性として、本部の妻の姉妹の嫁ぎ先がハワイに移民したことを、以前にご教示いただいた(ただし、ハワイ在住だったのは姉妹本人か姻戚かは文意からは判断できなかった)。