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降りかかる火の粉は払わねばならぬ×芸は身を助く=空手に先手あり?|Report

「空手に先手なし」――船越義珍の空手道二十訓の第二訓で、一般にもわりと知られている言葉ではないだろうか。自戒の精神性を表したとても滋味のある名言だと思う。

この言葉の意味するところは「相手の出方を見て後手に回る」ということではなく、「いついかなる場合でも先手の攻撃はないけれど、心構え自体は常に先手先手といかなければならない」と本人によって補足されている(船越義珍『空手道一路』1933年)。また、極真空手創始者の大山倍達が「空手に先手あり、されど私闘なし」と言い換えたように、好戦的になってはならないが、必要とあらば先手必勝すべきという考えが含意されているのだろう。(下記noteも参照あれ)

空手の型の稽古の本質は、闘わざるを得なくなった場合に自分がいかに対応すべきかをイメージし、心身ともに鍛錬することだと理解している。

さて、『豪州へ渡ったウチナーンチュ』(ジョン・ラム著、飯島浩樹訳、2021年、沖縄教販)という冊子がある。1910年代〜1960年代までに真珠を採集するダイバーとして移民労働した史実を追ったもので、沖縄からは162人が木曜島やダーウィンなどに渡航した。このなかに「闘わざるを得なくなった場合」の武勇伝が収録されている。

ローバック・ホテルで飲んでいる間、地元の肉屋の労働者の何人かが荻道や他の乗組員を延々と冷やかし、「ジャップ」と嫌がらせしてきたり、帰れと言ってきたりした。これらのオーストラリア人からの際限のない挑発にうんざりして、荻道は結局仲間と一緒に相手の要求にいやいやながら外に出た。大柄な肉屋の労働者たちは、これらの「小柄なジャップ」は朝飯前だと考え、沖縄が空手の聖地であり、荻道が空手の黒帯を持っていたことを知らなかった。何が彼らを襲ったのかわからないまま、すぐに白人の労働者全員が地面にうめいて横たわって、「ジャッキー・チェンの映画のよう」だったと言われた。パブの外に集まった先住民の若者たちは、これが今までで最高の無料の娯楽だったと考え、何年もの間このシーンの再現で有名になった。

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オーストラリアは意外に沖縄系の空手道場が多い地域だが、このような場末の私闘の話に尾ひれがついて、アボリジニの皆さんが真似するほど空手が神格化されたのだと想像すると、ついつい口元が緩んでしまう。

もうひとつ、もっと深刻な「闘わざるを得なくなった場合」が『戦後五十周年記念誌 楚邊國民学校1940〜1945 遥なり激動の少年期』という記念誌にある(那覇市楚辺にあった尋常小学校のことで、現城岳小学校)。戦時中の本土への疎開中に、地元の子どもにいじめられていたという過酷な状況だった。

ある昼下りの休み時間の出来事であった。生徒たちは殆ど校庭で楽しそうに遊んでいた。しかし、沖縄学童たちにとっては遊び時間こそ苦痛であった。なぜなら地元の学童たちにいじめられていたからである。
いつものように沖縄学童たちはいじめられていた。私と一緒のクラスの比嘉君が、あまりの酷いにいじめに耐えられず地元の鼻垂れ小僧に、どつかれ頭をポカポカ殴られ、さんざんな目にあっていた。
彼は勇気を奮って拳で、この腕白小僧の鼻ぶしを殴りつけたのである。咄嗟の出来事にこの腕白小僧とまどった。鼻に手をやると鼻血が流れている。その鼻血を見た瞬間、急に弱気になってワァーと泣きわめいた。いつも肩で風を切っていた腕白小僧の哀れな姿だった。傍で見ていた大勢の生徒たちは、あっけにとられて空手の恐ろしさを思い知った。
比嘉君は彼の兄貴がつくった巻き藁で拳を鍛えていたので拳の威光は凄まじかった。
その事件をきっかけにいじめはなくなった。空手の本場の沖縄人は強いという評価にかわり今度は英雄視された。しかし、楽あれば苦ありで困ったことが起こった。地元の学童たちは沖縄学童たちをスーパーマン扱いして、この板を拳で割ってみせてくれ、この瓦を割ってみせてくれとせがまれて、沖縄学童たちは弱り切っていた。拳の痛みを堪えながら力を誇示していたが、お陰で拳は真っ赤に膨れ上がり血が滲み出ていた。
ひとりの沖縄学童の苦肉の策が功を奏し、いじめられなくなったが地元の学童の無理難題の注文にほとほと閉口させられた。

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最終的には笑い話に落ち着いたことにはホッとする。ただ、そのいじめの背景に、沖縄差別があったのか、それとも閉鎖的な田舎の学校での異質なものへの排除意識のみだったのかは気になるところなので、いつか改めて取り上げたい。比嘉くんのお兄ちゃんがいじめられていなかったならばいいが…

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