津堅島の起源説話#1 仲真次門中|Field-note
仲真次門中の起源
仲真次門中の始まりは津堅島の起源説話に求められます。つまり仲真次家が津堅の村建ての家(ニーヤー)ということです。
この伝承は1745年に編まれたとされる『遺老説伝』をはじめいくつかの文献に載せられていることと、小中学校のPTAの会合などで父母にレクチャーされたことがあることで、細部の違いを抜きにすれば、島民の比較的広い範囲にまで浸透しています。
むかし、現在の中城村字喜舎場に喜舎場子なる人物が住んでいた。
ある日、丘に登って見渡してみると、東の海にあたかも桃源郷のごとき小島が浮かんでいるのが目にとまった。
そぞろ風に旅情をかきたてられた彼は渡島を決意する。
しかし、妻とともに舟に乗り込みいざ櫓を漕ぎ出したのはよいが、目指す場所にきてもいっこうに肝心の島は見当たらない。
途方にくれいったん引き返し、もう一度丘の上から眺めると島は悠然と浮かんでいる。
日を改め再び漕ぎ出ると、今度は島影も明らかに順風満帆のうちに島に到着した。
彼は喜び勇んで思わず「チキタンチキン!」と歓声をあげた。
無人だと思っていた島は、驚くなかれすでに人の住むところであった。
彼は、善良ではあるが未開人なみの暮らしを送っていた島民を教育し、文化や生活の向上に努めた。
そのかいあって島の知的水準・生活水準も次第に上昇し、彼は人々の信頼を一手に集め、のちに島の開祖としてあがめられることとなった。
仲真次門中はこの喜舎場子を始祖に持ちます。1990年当時、門中の宗家に独居していた老婦人は、仲真次の名前の由来について、喜舎場子が「仲間」という家の次男だったからと説明しています。
当家を神元として、毎年旧暦9月18日に中城村喜舎場に参拝することが習わしです。この神拝みは門中だけに限定されず、神人、島の役職者や希望者も参加する村落の行事として営まれています。
この伝承には津堅という名の語源を示すモチーフがみられます。喜舎場子の乗った舟が島に接岸した際に口をついた「チキタンチキン」です。この言葉に倣い、以後この島を津堅と称するようになったといいます。
もっとも、この語を訳すと「着いたぞ、津堅に」となり、地名の所与性を立証することになりますが・・・
さて、津堅島に落ちついた喜舎場子であったが、ほどなく島の美しい娘イサハッチャミーと恋仲となる。
二人のただならぬ関係を知った妻は、身重であるにもかかわらず家を飛び出し、死ぬ覚悟で東の浜辺をさまよった。
いよいよ身を投げようとしたそのとき、お腹の子どもが彼女を引き止めてこういった。
「母さん、はやまってはいけません。私は将来有望な身です。あそこに打ち寄せられた流木につかまりなさい」。
彼女を乗せた丸木は流れ流れて知念の浜に辿り着いた。
そこから歩いて首里に向かう途中で、現那覇市識名のとある家に立ち寄った。
聞けば老夫婦のみで寂しい余生を送っているとのこと。
彼女の事情を知ったこの老夫婦は、彼女とその子を養子として当家ハナグスク(花城)に迎え入れたいと告げる。
彼女は一も二もなく快諾した。
時を経て、大きくなったこの子はみごと按司職に着任した。
そのことを聞きつけた津堅側は彼を島に呼び戻そうと説得した。
しかし彼は聞き入れず、逆に父親を引き取りたいと申し出た。
双方協議の結果、5年毎に津堅からは6月吉日に、ハナグスクからは8月吉日にそれぞれ訪問し合うということで折り合いがついた。
このときから津堅ではこの来訪を歓迎するウシデーク(臼太鼓)を8月に舞い踊るようになったという。
この口碑のバリエーションとして、島に渡ったのは夫婦でなく実は喜舎場子とその妹であったという説があります。そうなると、この話は兄妺始祖型創生神話だと分類できます。沖縄には、姉妹(オナリ、ウナイ)が兄弟(エケリ)を霊的に保護するというおなり神思想があります。
両方の伝承を承知している者の多くは、兄妹説のほうがより古い形だと考えているようです。ちなみに『遺老説伝』は兄妺という記述です。
兄妹説を唱える人は、夫のあとを追って津堅に渡った妻は、兄と妹のあってはならない関係を知り失意のどん底へ落とされ、赤子をはらんだまま自殺を図った云々とこの説話の異聞を解説します。
そうした伝承上の相違をよそに、中の御嶽は喜舎場子の葬所としてあがめられ、村落祭祀の舞台のひとつとなっています。また、イサハッチャミーの墓もそれとは別個に祀られています。
ところで、津堅の起源を仲真次門中に求めない意見もごく少数ながら存在します。この人々は、別の漂流説話の主人公である津堅ペークーを村落の始祖として後押ししています。津堅ペークーはハダカユー(裸世)、喜舎場子はナカヌユー(中の世)と時代的差異を強調するのです。ただし、儀礼をとおして両家の優劣を判断することはもはや困難な作業だと思われます。