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屋部憲通と屋部憲伝と屋部憲|Report


いくたびも屋部憲通

(時間があれば読んでみてね👇)

『北米沖縄人史』(1981年)から屋部憲通関連の箇所を抜き出す。

一九二七年屋部憲通は子息憲伝の呼び寄せで、ロサンゼルスにやって来た。屋部は沖縄最初の軍人で少尉であったが、「屋部軍曹」と人々から尊称されていた。退役後は師範学校の体操教師となり、空手を指導した。師範で屋部から空手を習得した教師が全県下の学校で空手の指導に当り、今日の空手発展の礎となった。師範学校をやめて米国の息子に呼び寄せて貰ったのだが、「軍刀をぶらさげて来るな」との条件であったという。(比嘉隆談)

p547

屋部は当地では裃(ママ)をぬぎすてて、若者達と農園労働をたのしんだ。屋部から直接空手の手ほどきを受けた者はいない。

p547

右相撲大会(註:一九二一年七月末の相撲大会)を催す大きな原動力となったのは、比嘉キャンプから五マイル位はなれた所に安里昌午氏(昌一の父)方に沖縄で有名な屋部憲通軍曹(憲伝の父)が居られたからであった。安里昌午氏は当時、二百四十エーカーのブドウ園を耕作していた。屋部氏は大の相撲ファンで、沖縄で相撲大会があるところには必ず参加された程熱心であった。屋部氏が若者達と語り、激励した結果、相撲大会を催す事となった。

p544

憲通はロサンゼルスでは主に農業に従事していた。空手は表立って教えなかった一方で、角力は楽しんだようである。息子と一緒に暮らした時期もあるだろうが、知人宅に居候することも多かったようだ。それは、憲通と憲伝の親子関係によるところがあったかもしれないし、憲伝宅が社会活動家の根城だったことが憲通の居宅を気まずくする要因だったかもしれない。

なお、『沖縄朝日新聞』1937年8月28日の「屋部憲通の死亡記事」には、「諸々でボクシングを相手に試合し米人を驚嘆せしめた」と書かれてある。傍証がなく、かなり眉唾に思える。

息子の屋部憲伝という人物

一八八八(明治二十一)年沖縄県首里に生れる。中学校を卒業して間もなくハワイへ渡り、一九一二年米国本土へと転航した。一時サンフランシスコに住み、後ロサンゼルス市へ移る。
彼は沖縄にいる時からキリスト教徒で、渡米の目的も神学研究であったのでキリスト教会へ入り、聖書を深く学んだ。

p670

憲伝は51歳で亡くなる。彼は3人の娘を授かったが、息子はいなかった。憲通の渡米の目的に世継ぎとして孫息子を連れ帰る算段があったとしたら、首尾よくはいかなかったことになる。

『「島ぐるみ闘争」はどう準備されたか―沖縄が目指す〈あま世〉への道』(2013年、不二出版)の第Ⅱ部「沖縄の人びとの歩み―戦世から占領下のくらしと抵抗」(国場幸太郎著、森宣雄編)に次の記述がある。

志願して日本の軍人になり、日清戦争に参加した例外はある。日清戦争より4年前の1890年、沖縄から10人ほどの若者が日本陸軍の下士官養成機関である「陸軍教導団」に志願入団して、職業軍人になった。その動機は、沖縄に対する差別扱いから脱け出し、日本国民として認められるには、軍人になることが早道と考えてのことであった。と言われている。その中の一人屋部憲通(1866~1937)は日清・日露の両戦争に従軍し中尉にまで昇進して退役したが、私が子どもの頃も「屋部軍曹」の名でよく知られていた。
日清戦争当時の沖縄の人たちは、親日派の開化党と親清国派の頑固党とに分かれて対立し、抗争に明け暮れていたほどであるから、日本の軍隊に志願入隊した屋部憲通らは異端者あつかいされ、轟々たる非難を浴びせられたという。
そのような環境で育った屋部憲通の息子屋部憲伝は職業軍人である父に反発して、キリスト教に入信した。そして徴兵適齢の20歳のとき、神学研究各目でハワイへ出国し、徴兵を拒否した。その後アメリカ本国へ渡って、社会主義思想に近づき、後にゾルゲ事件に連座して獄死した沖縄出身の画家宮城与徳らと社会問題研究会を組織するなど、左翼の社会運動にたずさわっていた。息子の憲伝にとって父憲通は反面教師であったのである。

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憲伝は父から空手を受け継がなかった代わりに、正義感や義憤心を受け継いだ。憲伝が中心となって結成した黎明会(のちの社会問題研究会)は、当時の日本人移民社会の間でも話題になるほど社会性の高いもので、若い沖縄県系人の知的鍛錬や精神形成におおいに寄与した。結成の動機には、沖縄に対する差別と抑圧に抗する意味合いもあった。

ロシア革命後のプロレタリアート運動や階級闘争の高まりに呼応するかのように、黎明会の活動も思想性を強めていく。とりわけ1924年の排日移民法のあとは、他の日系移民も会に加わるようになって先鋭化し、1932年1月15日の「ロングビーチ事件」でメンバーらが連行される事態となる。

又吉淳、宮城與三郎、照屋忠盛、山城次郎、島正栄は国外追放になり、ソ連へと亡命した。その後消息は途絶え、ようやくソ連崩壊によって、全員がスターリン政権下でスパイとして逮捕され、銃殺または強制収容所送りとなったことが判明した。合掌。

甥の屋部憲という人物

先の死亡記事に「屋部憲氏の舅父」と書かれていることから、憲通の姉妹の子ということになる(なのになぜ屋部姓なのかについては未調査)。『琉文21』というサイトの「近代沖縄の民衆運動③戦後・沖縄文化運動のリーダー屋部憲【1】」から経歴を抜き書きする。

屋部憲(1894年~1952年)は、沖縄県立第二中学校ストライキ事件で中退し、東京で近衛連隊勤務のかたわら美術研究所で学ぶ。1919年8月に帰郷して『琉球新報』の記者となる。1925年9月に退社。ソ連への越境入国を企てて、満州ハルピンまで行ったが果たせず。その後、大阪で「赤光社」という看板屋を営みながら県人会運動に参加する。1926年3月に沖縄青年同盟に参加する。1928年2月、第1回普通選挙で労農党の井之口政雄を応援するため帰郷する。

どことなくだが、憲伝同様に社会主義への傾倒がみてとれる。憲伝が1888年~1939年であるから6歳違いで、子どもの頃に慕っていたか、成人してからの文通等による思想的影響の可能性はありそうだ。看板店を営んでいたようで、おそらくは画才があり、その才能は息子で書家の屋部憲次郎に受け継がれているのではないだろうか。

(以上、敬称略)

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