いくたびも屋部憲通
(時間があれば読んでみてね👇)
『北米沖縄人史』(1981年)から屋部憲通関連の箇所を抜き出す。
憲通はロサンゼルスでは主に農業に従事していた。空手は表立って教えなかった一方で、角力は楽しんだようである。息子と一緒に暮らした時期もあるだろうが、知人宅に居候することも多かったようだ。それは、憲通と憲伝の親子関係によるところがあったかもしれないし、憲伝宅が社会活動家の根城だったことが憲通の居宅を気まずくする要因だったかもしれない。
なお、『沖縄朝日新聞』1937年8月28日の「屋部憲通の死亡記事」には、「諸々でボクシングを相手に試合し米人を驚嘆せしめた」と書かれてある。傍証がなく、かなり眉唾に思える。
息子の屋部憲伝という人物
憲伝は51歳で亡くなる。彼は3人の娘を授かったが、息子はいなかった。憲通の渡米の目的に世継ぎとして孫息子を連れ帰る算段があったとしたら、首尾よくはいかなかったことになる。
『「島ぐるみ闘争」はどう準備されたか―沖縄が目指す〈あま世〉への道』(2013年、不二出版)の第Ⅱ部「沖縄の人びとの歩み―戦世から占領下のくらしと抵抗」(国場幸太郎著、森宣雄編)に次の記述がある。
憲伝は父から空手を受け継がなかった代わりに、正義感や義憤心を受け継いだ。憲伝が中心となって結成した黎明会(のちの社会問題研究会)は、当時の日本人移民社会の間でも話題になるほど社会性の高いもので、若い沖縄県系人の知的鍛錬や精神形成におおいに寄与した。結成の動機には、沖縄に対する差別と抑圧に抗する意味合いもあった。
ロシア革命後のプロレタリアート運動や階級闘争の高まりに呼応するかのように、黎明会の活動も思想性を強めていく。とりわけ1924年の排日移民法のあとは、他の日系移民も会に加わるようになって先鋭化し、1932年1月15日の「ロングビーチ事件」でメンバーらが連行される事態となる。
又吉淳、宮城與三郎、照屋忠盛、山城次郎、島正栄は国外追放になり、ソ連へと亡命した。その後消息は途絶え、ようやくソ連崩壊によって、全員がスターリン政権下でスパイとして逮捕され、銃殺または強制収容所送りとなったことが判明した。合掌。
甥の屋部憲という人物
先の死亡記事に「屋部憲氏の舅父」と書かれていることから、憲通の姉妹の子ということになる(なのになぜ屋部姓なのかについては未調査)。『琉文21』というサイトの「近代沖縄の民衆運動③戦後・沖縄文化運動のリーダー屋部憲【1】」から経歴を抜き書きする。
どことなくだが、憲伝同様に社会主義への傾倒がみてとれる。憲伝が1888年~1939年であるから6歳違いで、子どもの頃に慕っていたか、成人してからの文通等による思想的影響の可能性はありそうだ。看板店を営んでいたようで、おそらくは画才があり、その才能は息子で書家の屋部憲次郎に受け継がれているのではないだろうか。
(以上、敬称略)