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旧聞#3 ゆとりの空間|Essay
オープンスペースという言葉が造園や都市計画の世界にはある。うっそうとしたコンクリートの樹木に覆われた都会において、空がつつぬけに見える広い空間を想像してもらえればよい(実際はそんな場所に立地するのは稀だが)。この開放されたシェルターでは、視覚的にも実用的にも自由が謳歌されなければならない。たとえ建物に圧倒される景観になくても、利用規則やモラルが幅をきかせる公共の場においては、自由はいまや希少だから。
僕の場合、オープンスペースの体験は中央アメリカにある。カーニバルの風景―—古いハリウッド映画にでてきそうな移動遊園地とそれを取り囲む派手なネオンの店々。売り子の叫び声と安物のラジカセからこみ上げてくる黒い歌声。オイルの切れたメリーゴーラウンドの激しい吃音にかき消されて、発電機のモーター音も虫の声みたいな風情をかもしている。子どもの歓声さえここでは副音声でしかない。この騒々しさの要素たちが夜の胎内で融合して、世俗さをまとったカーニバルが生まれ落ちる。
このカーニバルの場所がオープンスペースだった。大した土地利用の需要がないこれらの国々の街には、ほとんど必ず郊外にだだっぴろい空間が用意されている。だけどここはときどき楽園に変身して、人々を夢中にさせてくれる。
この余裕の思想は場所だけにとどまらない。熱帯では時間は間のびして流れるから、人々はこれを消費しつくすことができない。快楽はこの余剰から生まれる。だからラテン世界では、労働は義務ではないし人生は苦痛ではない。
僕たち都市生活者の労働が義務で人生が苦痛だとしたら、こじつけを承知でいうが、理由のひとつはオープンスペースの欠如にあると思う。自由に遊べる広場の不在が子どもたちから創造性を奪い、大人たちのストレスを増殖させる。いつの間にかその構図は自己再生し始め、オープンスペースを与えられても、僕たちはそれを使いこなす主体性とか協調性をうまく取り戻せずにいる。
都市の幸福論のためには、ゆとりの空間はもちろん必要だけれど、その前にゆとりの学習から始めるべきなのかもしれない。