嫁が語るアルゼンチン時代の祖堅方範|Field-note
🎶"Abuelito" by Julio Sosa
春子といいます。
そろそろハカランダの花がきれいな季節ねぇ。昔を思い出すと話が尽きないわ。こうしてみなさんに私たちの話を聞いてもらえるなんて、とてもうれしいものよ。
私はね、祖堅方範(そけんほうはん)の息子、方幸(ほうこう)の妻なの。1947年に22歳でアルゼンチンに移り住んで、方幸とは1954年に結婚したわ。当時から方範さんと私の叔父が私たちをくっつけようとしていたらしいのよ。舅の方範さん―—私はタンメーって呼んでるからそうするわね、タンメーもご丁寧に家族にお願いしてくださったらしく、まあそういう運命だったのかしらね。
タンメーは、沖縄で結婚して子どもが三人いたのよ。方幸の兄弟が二人いたってこと。名前を忘れちゃったけど長女と、それから弟に方吉(ほうきち)って名前の子がいたわ。だけど、奥さんと二人の子どもは沖縄に残して、方幸だけを連れてタンメーは南米のアルゼンチンへと旅立ったの。
タンメーは1924年頃、兄の方栄(ほうえい)さんに呼ばれてブエノスアイレスに来たのよ。最初は兄が経営していた洗濯店で働いていたんだって。店はPunta ArenasのAve. San Martinにあったそうよ。当時は、洗濯店同士で客を奪い合わないように10ブロックは離れて店を構えるのが暗黙のルールでね。いま改めて聞くと不思議なしきたりね。
空手を教えていたかって? それがね、アルゼンチンに来てからは全然教えてなかったらしいの。このへんはウチナーンチュも少なかったし、そもそもアルゼンチン人も空手なんて興味なかった時代だしね。タンメーも生活のために働くのに精一杯だったんでしょうね。だから、空手のことはあまり口には出さなかったの。
でも一度だけ、同僚で大里村出身の福地さんが彼のことを「武士」って称えた話を聞いたことがあるわ。なにかの集まりのときに、「おまえ、あの天井までは飛び上がれないだろう」って煽られたみたい。タンメーは黙って足の爪先に小麦粉をつけて、壁を蹴って飛び上がったのよ。そしたら、本当に天井に届いたんだって。ちょっと信じられないような話ね。でも、タンメーならやってのけそうでしょ?
1975年に私と息子のマリオが沖縄に帰ったときにね、タンメーや親戚たちにも会えたの。彼はすっかり歳を取っていたけれど健在で、方吉さんの息子、つまり彼にとっては孫が介助していたわ。
彼は私たちには強い男だったけど、少し孤独だったんじゃないかしら。フリオ・ソサが歌う「アブエリート」のような憂いも感じられるわね。晩年はいつも「帰りたい」と話していたと聞いてるわ。
私たちが結婚したのはタンメーが帰国したあとだし、方幸もタンメーのことをあまり話したがらなくて…… 二人はそんなに仲良くなかったんじゃないかしら。方幸は「武士の後は子孫は栄えない」なんて愚痴を一度こぼしていたから。
方幸は賭け事が好きで、空手の類は全くやらなかった。県人同士で頼母子講で集まったときにポーカーをしていたのよ。勝つとお金を手にしてね。それがまた楽しみだったんじゃないかしらね。まあ、彼の生き方もまた彼らしいと思っていたわ。
糸数さんって方が言ってたんだけど、1955年頃に西原村の我謝の村芝居で、帰国した方範さんが「鎌の手」を披露していたのを見たんだとか。彼は戦後の移民なのよ。タンメーが故郷に帰って、何かしらの形でその空手の技を披露できたのはよかったと思うわ。
1980年代にはアルゼンチンの総合格闘技雑誌『YUDO KARATE』でタンメーが特集されたそうよ。「アルゼンチンに住んでいた伝説の空手家」として紹介されていたみたいね。弟子がいるなんて誰からも聞いたことないわ。
どうだったかしら、方範さんの人生は? ほんと波乱万丈でしょ。
追伸
これは2015年2月、祖堅春子さんにインタビューした記録を独白形式に書き直したものです。