アルゼンチン移住空手家の続報|Report
安里亀栄についての続報
以前投稿したアルゼンチンの沖縄空手の草分けである安里亀栄についての続報です。
1936年に披露した空手演武は、ブエノスアイレス州ルイスギジョンでの沖縄県人の公式行事での出し物でした。一緒に演武した知念善一は、亀栄と同年に移住したことがわかっています。
1935年の公開演武はコルドバ市のヒムナシア・エスグリマ体育館で開かれていて、会場は観客で一杯だったと新聞報道されています。主催したのは日系人と結婚した資産家エンリケ・ノーレス・マルティネス(妻は相沢イネ子)でした。
実はそれ以前の1932年6月14日、コルドバ市の日系人支部設立祝いで安里亀栄が空手とサイを演武したようです。コルドバ市が続きますが、亀栄は当時はこの地に住んでいたとのことでした。
中城村奥間にあった亀栄の生家は、瓦屋根の大きな家で、土地持ちだったそうです。亀栄は奥間で結婚して1男1女を授かりました。亀栄は息子を連れてアルゼンチンに渡ります。妻は亀栄がアルゼンチンに移民したあとも奥間に残りましたが、沖縄戦で亡くなったそうです。娘は隣村の津覇に嫁いでおり、息子の嫁が健在とのことですが、お会いできていません。不思議なことに、亀栄の弟、亀永のことをおぼえている人はいませんでした。
亀栄の息子は亀森といい、空手家ではありません。亀森は亀栄の生前、父に反発していたそうです。おそらく母親恋しさもあったのではないでしょうか。1974年に一度単身で中城村奥間に里帰りした後は、そのわだかまりが解けたようだったとご家族は述懐されていました。
祖堅方範のアルゼンチン生活
祖堅方範は1891年、西原町我謝の生まれで、母カミーはかの松村宗棍の孫娘に当たります。子どもの頃から伯父であるナビータンメーに空手の師事を仰いだとのことです。1924年、那覇の大正劇場で行われた「唐手大演武会」に、本部朝勇、喜屋武朝徳らとともに出演した経歴がある沖縄空手の大家です。
祖堅方範は1925年から1956年まで、アルゼンチンのブエノスアイレスへ移住しています。息子の方幸は他界していますが、方幸の妻と二人の子どものうち一人は当地に在住で、面会調査したところ、クリーニング店を営んでいた生活が忙しくて、空手の稽古はしていたようだが、教えることはしていなかったそうです。アルゼンチンの空手雑誌には4人の弟子がいたという記事がありますが、信憑性には疑問が残ります。
県人会等で空手演武を行っていた安里亀栄らと接触はなかったのかは気になるところですが、情報が得られませんでした。ただ家族や親族からは、壁を蹴り上がって天井に足先が届いた場面をおぼえているという回想を聞かせていただきました。身体能力はすごかったと口々におっしゃってました。
方範は兄の方栄の呼び寄せでアルゼンチンに渡りました。その兄も戦前に帰国し、戦死しています。方栄を呼び寄せた神谷松という人物は、ブエノスアイレスのセントラルに当時居住していましたが、足跡はたどれませんでした。