『北米沖縄人史』(1981年)に次の記述がある。
今回焦点を当てるのはこの人、仲村幸次である。戸籍上は仲村貞一だったらしい。だが、どちらの名前も「沖縄県系移民 渡航記録データベース」でヒットしない。1877(明治10)年に名護の大兼久で生まれており、1903年に移民したようであるから、26歳前後の渡航だったことになる。
この本の別の項に「名護の幸次」に関する詳しい記述がある。書き手は玉城重盛である。長いが引用する(読みやすいように段落替えは行うが、他は原文ママ)。
私の関心にひっかかったのは名護市宮里の「又吉のタンメー」という空手家である。1877年生誕の彼が10代前半の頃、すなわち1890年頃といえば、首里第一中学や沖縄県師範学校で空手が教えられた1905年よりずいぶん前である。やはり明治中期までには空手が沖縄県内に広まっていたと考えなければ、この師弟関係は成り立たない。屋部憲通を感心させるレベルの空手伝授がなされているということは、「又吉のタンメー」は北部に移住した寄留士族だったのではないだろうか。
NHK番組「ファミリーヒストリー」の又吉直樹の回からインスピレーションを受けて、又吉姓のルーツを調べたブログがある(『ファミリーヒストリー あなただけの歴史』参照)。それによると、名護市の又吉姓は71例。又吉家があった汀間(名護市の東側の集落)では、1903(明治36)年の戸数88軒中、30軒が旧士族だったという。又吉姓は麻氏門中に連なるようである(久米三十六姓ではない)。
明治期に腕試しや掛け試しといわれる無頼な慣行があったことはよく知られている。那覇の歓楽街・辻が有名である。名のある武芸者を待ち構えて勝負を挑むことを、若くて功名心にはやる新参がよく行っていた。当初は礼儀を踏まえたうえでの空手の自由組手だったが、後年になるとストリートファイトに近いものに様変わりしていったようである。
名護の幸次の時代はかなり無法な私闘が行われていたのだろう。身の危険を感じた彼は沖縄を出ることを決意した。とはいえアメリカでも鉄道襲撃などやらかしていたような記述もあり、やんちゃさは完全に影を潜めたわけではなかったようだ。ただ本部朝基の一節は、強い武士の代名詞であったから引き合いに出しただけであり、虚栄心で言ったわけではないと思う。
明治・大正期の武道家にはなぜかこのように芸能にも秀でた人物が多いような気がする。舞踊に関しては身体所作の共通点があるからと理解できるが、音楽はどうなのだろうか。リズム感との関連性などあるのだろうか。音楽を愛する心のゆとりみたいなものが人を精神的に強くするのだろうか。いつか識者に聞いてみたい。