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沖縄には昔200ヵ所もの馬場(マーウィー)があった#1|Report
まえがき
沖縄の馬場は、「馬追い」の意味で「マーウィー」「ウマイー」「ンマウィー」などと呼ばれました。幅が10~50m、長さが100~300mの細長い空間です。ンマスーブ(馬勝負)などと言われた競馬が行われましたが、その後さまざまな用途に転用されました。
明治13年の「沖縄県統計書」には71ヵ所の記録があり、長嶺操の「沖縄の馬場に関する調査覚書(予察)」には121ヵ所の記録があります。2002~2003年にかけて私たちが調査した限りでは198ヵ所であり、これには漏れもあるでしょうから馬場跡は200ヵ所は確実にあると言えるでしょう。地域的には本島中南部がもっとも多く、本島北部、本島周辺離島、先島の順で少なくなっていきます。
これから数回にわたり、市町村誌や字誌などの関連記述を抜き出すことで、かつての馬場や馬勝負の実像を洗い出していきます。
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馬場の呼び方
競馬場のことをウマウイというが、その語源は馬追い(伊波普猷)、馬売り(奥里将健)の二説がある。(『羽地村誌』より)
馬場を意味する語にカニク(兼久)がある。また、ジョーは古琉球語では原野の意味であり、今では細長い広い場所、大通りに転じ、同じく馬場の意味を持つ。(『具志川市誌』より)
かつて砂浜で競馬を行ったことから、カニクは馬場を指す場合もある。(『西原町史』より)
馬場はウマバと読んでいるが、これは伊勢物語や栄花物語の「うまば」からきたものだという。また、馬上(ウマウエ)ともいうが、これは馬追(ウマオイ)から転訛したといわれている。中頭、国頭あたりでは兼久(カニク)も使うようだが、島尻方面では使わない。識名マージや平良マージのようにマージも使われるが、本土の「馬路」の意味があるという。また、大庭(ウフナー)ということもある(尚貞王以前)。門(ジョー)は古琉球語では原野の意味だったが、場所~細長い場所~大通りの義になり、座波ジョーや古波蔵ジョーのように馬場にも転用されている。(『豊見城村史』より)
伊波普猷氏は、馬場を意味する琉球語としてンマバ、ンマウィー、カニク、ヂョー、マージ、ンマナーの6例を挙げている。(『具志頭村史』より)
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馬場が成立した理由や時代背景など
馬は王府時代に明との交易に貢馬として使用されたほか、課税の対象となるなど貴重な資源だった。(『伊是名村史』より)
『球陽』の記事には、首里には馬場がなく、各地に行き騎馬の方法を習って、西原間切平良邑に馬場を開いたという。各地に行って騎馬を習ったというからには、1695年頃にはすでに馬場があったことになる。それ以前の『琉球諸島航海日誌』(1615年頃)にも競馬が行われていたことが記してある。『沖縄県統計概表』(明治13年)には、「馬場なるものは毎年収穫のときに一間切の人民が相会し、各穀物の熟否を較べて、平生労力の勤怠を鑑別する所なり」とある。(『なきじん研究』より)
王府時代は田舎役人のたしなみとして馬術が奨励されたが、大正・昭和期にもなると宜野座あたりでは僅かな人がやるだけだった。(『宜野座村誌』より)
王府時代、明との交易に貢馬として使用され、特に第一尚氏の基礎を築いた。尚巴志は明への進貢に必要な優良馬を得るため、各間切にウマイーを設け年に数回ウマズリーをして馬の購入の便を図った。乗馬は元々士族のたしなみであり、平民に許可されたのは明治6年だった。(『嘉手納町史』より)
『球陽』の記事から推察して、馬場は近世頃から設置されたのではないか。(『中城村史』より)
馬場は本来、作物収穫時に一間切の人達が集まって、穀物の優劣を比べて平常の勤惰を鑑別するところだった。(『西原町史』より)
按司の時代から、城の近くには馬の調教のための馬場があったという。(『浦添市史』より)
沖縄は古来馬の産地で中国への進貢も島内産は馬と硫黄であったという。(『那覇市史』より)
現在の馬場(ンマイー)が造成されたのは明治10年だといわれている。(『保栄茂ぬ字誌』より)
察度王の時代には朝貢品として馬が輸出されており、その後も馬の輸出は続き、王府では馬集めの場として方々に馬場をつくった。16世紀からは黒糖の生産のために甘蔗圧搾機の動力として馬が重要になり、貧富の差を問わずほとんどの農家が飼育するようになった。(『糸満市史』より)
享保年間(1716~1735)から文化年間(1804~1817)の間に当山門(馬場)は設置された。玻名城馬場の設置は、地割土地制度の実施されない以前であることは明らかである。(『具志頭村史』より)
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