津堅島の起源説話#3 南風原門中|Field-note
南風原門中の起源
南風原門中の興りについて、同門中のある古老は次のように話しています。
むかし玉城村富里に、第一尚氏王統7代目国王の尚徳の子孫にあたる男性が住んでいた。
彼はある戦争の際に旗手として参戦した。
ある日彼の部隊が進軍していると、突然目も開けられないほどの突風が吹いた。
他の兵士たちが逃げたりその場にうずくまったりするなか、彼だけは姿勢を崩さず旗を持ち続けた。
そのうち旗の柄は彼が持つ手の上からポッキリ折れてしまった。
それでもまだ手を離さずにいた姿に王はいたく感激して、その勲功として彼を南風原間切の按司に任命した。
そのころの津堅島は南風原間切に属しており、のちに島に視察にきた際に彼が残した落胤(男児)から南風原門中は発展したという。
一方、同門中で昔のことに詳しいと評されている宗家(タールンチ)のヌルは、また別の伝承を記憶しています。
南風原門中の始祖は、第一尚氏王統2代目国王の尚巴志の三男腹から輩出した通称・津堅ペークミと呼ばれる人物である。
彼は首里王府に奉職しており、毎年八月には津堅島を視察する任務を負っていた。
島ではウシデーク(臼太鼓)やトーウドゥイ(唐踊り)を踊り、彼らを歓待する習わしとなっていた。
ある年の八月シヌグのとき、当時のタールンチのヌルが彼の子を宿した。
彼が三山統一の頃に身を隠していた土地(南風原間切)の名にちなんで、この子以降を南風原門中とし南風原の姓を冠するようになった。
これらの話ではにわかには信じがたい箇所もあります。ただ、門中起源を求める伝承の性格上、誇張や脚色が混じるのは一般的とも言えます。このような門中起源説話は、それを研究する人も土地の人々も歴史のある伝統的なものとみなしがちですが、実はそう古くなかったり新しい要素が混交していたりすることも結構あります。
門中は明治以後の近代化にともなう社会解体に直面した人々が、琉球王国にノスタルジーを投影しつつ、新たな社会秩序を構成すべく創りあげた文化的な産物だということができます。自らの門中の歴史を権威あるもの・伝統的なものと結びつけることによって、社会的威信を高めて精神的満足を得るというコンテキストのなかで、門中起源説話を読み解く必要がありそうです。
ところで、南風原門中の神元=大宗家は玉城村富里にあるシリーナケヤマ(世礼中山)と伝えられます。この家の傍系の子孫が南風原門中ということになっていて、大宗家を中心とする世礼腹(シリーバラ)門中の下位門中という立場にあります。
しかしながら、南風原門中が世礼腹門中と直接の交渉を持つのはカミウシーミーのときに限られています。その頻度は、話者によって毎年だったり毎3年だったり毎5年だったりと記憶に揺れがあり、結びつきはすこぶる弱いものととらえられます。
にもかかわらず、南風原門中側は本島の大組織に組み込まれていることに対して大きな安堵感を得ているのです。それは、正統なものに属していたことで身のまわりに起こった災いを封じ込めた過去の出来事とともに説明されます。門中が災因論と連動して語られることのよい例になっています。
(この過去の出来事についての記録は逸失してしまいました。)
<起源説話シリーズ終わり>