小説「浮遊の夏」⑨ 住野アマラ
大浴場から部屋に戻ると相方はテレビをつけたまま寝落ちしていた。
テーブルの上にさっきのパチンコの景品らしい小さいキューピーちゃん人形の指サックが置いてある。
人差し指にはめてみた。かわいいじゃん。
じゃあ、私は広縁でクールダウンしよう。
ということでびーるびーる。
奴の分も飲んでやる。
籐でできた椅子に座り外を眺める。
窓から街の灯りが見える。
窓ガラスに音だけ消したつけっ放しのテレビの画面がチラチラ映っている。
幼い頃の記憶が浮かび上がる。
昔、熱海の旅館で夜に目が醒めた時に母が椅子に座り窓の外を見ていた一場面である。
いつもの湯河原じゃなくて熱海に泊まるなんて初めてだった。
普段と様子の違う母。不思議だった。
泊まった旅館がこれがまた薄暗く、古い柱時計とやけに日に灼けたおじいさんが不気味で、おまけにお風呂場で人生初の本当に初めてのゴキブリというものを見たのだ。
その時感じていたおぼろげな不安とゴキブリのせいで熱海は私の中で印象が悪い。
まさにトラウマだ。
もちろん熱海が悪いわけじゃない。
最近は若い世代に人気らしいし。
熱海に泊まった翌日なぜか私だけ家に帰っており、母はおばさんの家にしばらく家出していたようだ。
幼稚園の先生から私が元気がないと連絡があったと、後々になって話に聞かされた
きっと母は父と喧嘩して一時家出をしたんだろう。
前後の記憶はないがまた普通に戻り日常は続いていたのだったから。
しかし今になってもしかして、もしかするとと思った。
もしかして母は私と一緒に死のうとしていたんじゃないか。
でもやめて私だけを家に戻したんじゃあなかろうか。
今は聞きようもない。
とにかく、それから私は大のゴキブリ嫌い。
結婚相手の条件を三つ挙げろと云われればまず最初にゴキブリを退治できる人だ。
ギャアギャア怖がる男なんてもってのほか。
だって私がギャアギャアするんだから二人でギャアギャアしてたらひどい有様だ。
そして優しくて、一緒にいるのが楽で、頭が良くて、ユーモアがあって映画の趣味も合う人。
ぶちぶち文句言ったり、ケチじゃない奴。
でもたまに肩や足をマッサージしてくれる優しい男…。
〈続く〉
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