「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」考察12 エンディング曲の意味
ジョークを言わなくなった理由、歌を歌い始めた理由
冒頭のアニメーションでジョーカーはノックノックとジョークを言おうとするも、警察にリンチされ、ジョークをいうことはできない。
お得意のジョークで自分の不幸をネタにして、皮肉って笑うことはもうできない。序盤の髭剃りのシーンでは看守はジョーカーにジョークを言えと強要し、言わないので看守が自らジョークを言う。もはや笑いというのはジョーカーを守らない。不幸を皮肉ってthat's lifeとはいえない。
スタンダップコメディには詳しくないが、性別、人種、宗教など政治的で、自虐的なジョークが多いというイメージがあるが、おそらく皮肉という形で世の中に反発というか抗議、攻撃をしているのだと思う。
that's life、人生山あり谷ありと前作のエンディングで人生を俯瞰したアーサーは、誰かを攻撃することはなく、タバコをもらうためにジョークを言う、餌を待つ犬のような存在になる。
そこに現れたのが、歌を歌う女性、ハーレイクインだ。
歌というのはジョーク以上に人を鼓舞する力があると思う。
ラ・マルセイエーズという歌はフランス革命の時に歌われたし、1989年にリトアニアがソ連邦からの独立を要求して、200万人のバルトの民衆が武器を持たず、歌を歌って平和への祈りをささげたという話もある。
社会や体制に対する抗議のメッセージを歌詞に取り入れて聴衆に訴えるプロテストソングや革命の支持、あるいはその賞賛のために作られた革命歌など、歌は人の感情を鼓舞する力を持つ。
今作のハーレイの目的はジョーカーを操りジョーカーらしさを引き出すことだし、アーサーはジョーカーの演技をして、ジョーカーフォロワーを鼓舞することだ。
だから皮肉って微妙に抗議してるかな?なジョークでは甘く、強力な力を持つ歌を歌うのだ。
刑務所でアーサーを慕い、そのせいで看守に殺されるジョーカーフォロワーの1人は、死ぬ直前歌を歌って腐敗した刑務所とその看守に抗議した。
終盤、アーサーはジョーカーでいることをやめる。力強い革命歌はもう必要ない。裁判所爆破の後、ハーレイとの別れのシーン、ハーレイはいまだに歌を歌って別れるが、アーサーはもうデュエットはしない。
映画と同じ歌にも革命を誘発するようなプロパガンダとしての装置があるハーレイはそれを利用したのだ映画と同じ歌にも革命を誘発するようなプロパガンダとしての装置があるハーレイはそれを利用しジョーカーに虚像の自信を与えたのだ。
エンディング曲の意味
前作のエンディング曲であるthat's life
本作の前半でもアーサーがthat's lifeを歌う瞬間ある。人生山あり谷ありと自分の人生を俯瞰している。
だが今作のエンディングでthat's lifeを歌うのはアーサーじゃなく、ハーレイクインだ。
今作の中盤、ジョーカーとハーレイがデュエットする妄想をする。だがハーレイが目立ち、それに抗議したジョーカーはハーレイに銃殺される。
この流れが映画の後半ではそっくりそのまま起きている。
ハーレイと共に革命を起こし、デュエットをしているつもりなアーサーだったが、今作全体の流れとして、アーサーを共感や歌で操っているのはハーレイで、終盤にはメイクを落としたアーサーとは対比的に、派手なピエロのメイクをして、アーサーのジョーカー的な部分を搾取しているようにみえる。
今作のサブタイトル、フォリアドゥ、妄想の感染はここにきてハーレイに感染しきる。
その後ジョーカーらしさを捨て、アーサーになることを選択、つまりハーレイへの抗議をすると、ハーレイには捨てられ、前の記事、ラストシーンの考察でも書いたようにハーレイに殺される。
ジョーカーを洗脳し、ジョーカーチルドレンを生み出し、ジョーカーを殺した。ジョーカーの人生はハーレイは完全にハッキングされた。
だからエンディングでthat's lifeを歌うのはジョーカーじゃない。デュエットの妄想のように前作のアーサーのエンディングソングはハーレイに奪われるのだ。
一方でアーサーが最後に歌う歌 true love will find you in the end
なんてこった!
誰にも愛されなかったアーサーは初めてハーレイに愛される。だがそれすらも偽りだった。
前作でthat's lifeと人生を俯瞰しきったアーサーの最後は、俯瞰とは対照的に超主観的な愛を信じる歌で終わるのだ!
勝手に人々から投影された挙句ハーレイには捨てられ、信者からは殺される
それでもアーサーは愛を信じている。
悲しすぎるだろ!!