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「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」考察2 なぜアーサーは常にカメラを向けられているのか

⤴︎先にこっちを読んでくれ!

なぜアーサーは常にカメラを向けられているのか


今作の序盤アーサーはインタビューを受け、カメラの前で弁護士に指示されたように更生したアーサーという役割を演じようとする。
裁判のシーンでも常にカメラを向けられ、ジョーカーという役割を演じる。それを見る囚人たちの様子も今作では映される。
ハーレイクインは売られているテレビでジョーカーを見て、興奮してテレビを盗んで持ち帰る。
このようにアーサーはメディアを通して人々に知られる。
だが今作の裁判での精神科医への反対尋問のシーンでも言われていたように90分アーサーを見ただけでその人の何がわかるんだという疑問が湧く。
まさに映画をみた我々だ。映画を見ただけで社会的弱者の苦悩がなぜわかる?
人々はジョーカーの1側面しか見ないのは、このようにメディアのせいでもある。
序盤のインタビューでインタビュアーがアーサーに対し、ジョーカーとして責め立てた。
インタビュアーもテレビ向けにアーサーの単純化された悪の部分も求め、そこのみを切り取ろうとしているのだ。
そもそも前作の暴動のきっかけになったのが、マレー殺害とその前の演説のみというアーサーの切り取られた姿がテレビで放送され、それがミームとして広がったのだ。
さらにピエロというアイコニックなモチーフを用いることでミームとして拡散する。



ザッツエンターテイメントの意味

今作でかかるthat's entertainmentという曲
嫌なこと不幸なことは沢山あるが、それらは全てエンターテイメント、娯楽だと皮肉を込めて歌っている歌らしい。
ジョーカーは見せ物だ。
金持ち連中という社会的弱者にとっての悪と戦う正義のヒーローとしてエンターテイメントに映る。


なぜ今作はわかりやすいエンターテイメントじゃないのか

今作が1作目のようなカタルシスのない、エンターテイメントじゃない構成なのは、社会的弱者をエンタメとして消費し、金持ち連中ぶっ殺しプロパガンダにしないという強い意志を感じる。ジョーカーとその物語を見せ物にしないでテーマを語ったのだ。
そこに悪い意味でわかりやすい物語がないから前作のように感化される人もいない。
映画のもつ危険性に真っ向から向き合っている。


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