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「ナミビアの砂漠」感想2 ラストシーンの意味 ヘンテコ映画の存在意義


⤴︎感想記事1です

ラストシーンの意味

冒頭から他人のシリアスな話題にも上の空でロン毛の彼氏の言い分を理解しようとしない主人公はラスト、自分でも意味のわかっていない中国語を話す。彼氏がどういう意味か聞いてわからないと答える。そしてわからないことを2人で笑う。
主人公はわからないことが嫌いで、ロン毛の元彼氏が謝り泣き始めると、変な人と笑って吐き捨てる。脱毛に意味はなくまた生えてくるのにネットで調べることもせず通い続ける人たちをバカにするような話もする。他人が理解できない。そしてついには自分自身のこともわからなくなっていく。
このラストはわからないことを受け入れるラストだと思う。彼氏は主人公の行動や言動が理解できないし主人公も彼氏の無神経さや倫理観を理解することができない。わかりあえない人同士が理解できないまま、完璧ではないもののわかりあった一筋の光を示したシーンだと思う。

テーマを決めてから脚本を書いたりはしないので、いろんなテーマが見えてくるのは書き終わってからだったりするんです。この映画には、もともとカナには人の言葉が全く響かなかったのが、次第に響いてくるようになるっていうストーリーラインがあるなと思って。多分、書いてる途中でそうなったのかな。まだカナのマンションの隣人(唐田えりか)も出てきていない段階で、“この映画はどうやって終わるんだろう?”と思った時に、カナがだんだん人の話を聞けるようになってきているのが見えた。そんなふうに、最初はとりあえず無意識に任せて書いてから、後で何をやりたかったのか、自分で答え合わせをするような書き方をしています。


1対1で対面した二人のカットバック(※二つ以上のカットを交互につなぐこと)が、劇中にはよく登場します。それらを追っていくだけでもカナの変化がわかり、最後のカナとハヤシのカットバックでは、一つの到達点に至るというか。それも含め、カメラマンの米倉伸さんと話したことを教えてもらえますか?
はい。まさにそういうことを話しました。「最後の二人のカットバックで、やっとカナが相手とフェアな地平に立てるんじゃないかという、希望みたいなものを映せるといいね」って。そこまではずっとこう、なんというか、上下関係とか、権力の奪い合いとか、マウンティングの連続なんだけど……。

https://ginzamag.com/categories/interview/470605


三幕構成じゃ扱えない複雑性

主人公は病名をはっきり言わない精神科医に、病名は大切だと言う。わからないことが苦手な主人公は自分のことを理解したいと思う。心理カウンセラーに最近の自分について、よくわからかいと吐露する。
問題は複雑ですからね。複数の障害(adhd 境界性パーソナリティ、躁鬱)が重なり合うことがあるし、グレーゾーンかもしれないし、生い立ちからスキーマができあがって、カウンセラーが言っていたように、こうでなきゃいけないという思い込みがあるかもしれない。この映画のように決定的なストレッサーが描写されるわけじゃなく日常の些細なことからストレスが溜まり、自分を客観視できなくなってるのかもしれない。
問題は複座で自分のことを100%理解することは難しい。
ハリウッド的な三幕構成や成長譚でこのような物語を語ることは難しい。主人公の成長すべき欠点や病気を限定して、起承転結という枠組みに入れ込まなきゃいけませんからね。
日々のストレスによりイライラする、主人公の複雑な生活を描写するときに枠組みは邪魔じゃないすか
欠点を直して万事解決みたいなストーリーじゃありませんから







ヘンテコアート映画の存在意義

別にアート映画かくあるべしと言うわけじゃありませんよ
たいして見てないですし、意味不明な映画よりアイアンマンの方が好きですし

でも俺なりに色々考えたんやけど、ただ意味不明なこと、奇抜なことするのは誰でもできるじゃないですか
そうじゃなくて、メインストリームの映画じゃ語れない物語をどのように語るかのhowの部分が結果的に実験的になってしまうものだと思う。
ナミビアの砂漠の複雑なストーリーを枠組みに入れ込まず複雑なまま語ることだったり、関心領域のただ、見ている人をセリフで責めるんじゃなく、お前らコイツらと同類だぜと感覚的に感じさせることにより、自分の関心領域の狭さにハッとさせられる体験だったり、パーフェクトデイズの主人公の視点で淡々とした日常を淡々と見せることで、主人公の価値観そのものを理解できるようになったり、マーベル映画じゃ語り用のないテーマを語り、感情を抱かせてくれる。
だから最初から奇抜なもんを作ろうとしてやるんじゃアカンのですよ
どのように観客にテーマを伝えるか、howの部分を考えた末に、結果的に実験的になってしまったみたい映画はよくできたアート映画だと思うんですけどねぇ



映画の限界性


主人公の映画なんか見て何になんだよというセリフや、脚本を書くクリエイター気取りの彼氏に、脚本なんかやらずに他のやり方で人を助けろ(記憶が曖昧だが、こんなこと言ってませんでしたっけ?)と言って、何をするべきかクリエイターなら自分で考えろとも言ってました。

「『あみこ』を撮った前後の時期は、『四六時中ずっと映画のことを考えているのが映画監督としてあるべき姿』みたいなことを本気で思っていました。たとえばひどいことを言われたり、されたりしても、『これは映画のネタになる』とか……人にも言われますからね、私が『いやなことがあった』と話しても、『映画のネタになるから糧にしなよ!』とか結構簡単に言われたりして、ちょっと感覚が麻痺していってしまったんです。そのあとに映画業界の労働環境や性加害の問題が表出して、それまでの自分のモードが変わって、『え、なんか映画しょうもな』と、映画づくりに対して疑念が生まれました。」

「それからコロナ禍で制作が延期になり、わりと自分と向き合う、『無理に映画を作らなくてもいい』ような時間ができて、今思い返せばその期間が私にとってはすごくよかったです。『生活をないがしろにしてでも映画のことを考えるのが、映画監督として真っ当である』みたいな思い込みから抜け出せて本当によかった。そういう考え方が、映画のためなら他人を踏んでいいということにつながりかねないと気づきました。あまり映画のことを信じすぎないようになったというか。映画だけのためには絶対に生きたくないし、生きている過程、その延長に映画を作れたらいい。それを最優先したいと、ここ数年ですごく考えていました。」

https://www.bunkamura.co.jp/topics/cinema/8957.html

映画本編の物語とは関係ないセリフですが、考えさせられるセリフですよね
見てる側にも突きつけられるし、監督自身の自虐にも感じる
たしかに映画を作っても見る人は限られますし、映画でテーマを語るくらいならその労力や金を、寄付に使ったり、NPO団体に就職したり、もっと結果がわかりやすいやり方で解決する方法あるやろと思ってしまうこともあります。見ている側もただ映画を見て色々語って考えておしまい。はい次の映画みたいなただエンタメとして楽しんで終わりみたいなところもあると思います。
監督は映画というメディアを神格化せず、限界性も考えているんですかね?

これについては他の記事でもうちょっと深ぼってみます。

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