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「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」感想 アーサーが母親殺しを明かした理由

ジョーカー1作目がモヤモヤした理由

前作のジョーカー1作目はエンターテイメントとしてよくできている。
面白くは見たものの、モヤモヤも大きかった。
ジョーカーが悪のアイコンになり、共感した人たちが彼に影響され、実際に犯罪を犯す。
監督のトッドフィリップスは映画がもつ力の危険性を考えていなかったのか?

デヴィッドフィンチャーのジョーカーに対する感想が、この映画の姿勢を表してると思いました。

私はあの映画を見る人はいないと思っていた。あれは『さあ、トラヴィス・ビックルとルパート・パプキンを足して作ったキャラクターを精神的な病という罠に陥れて、10億ドルを稼ごう』と考えて作ったような映画だと思う」

https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a34690745/david-fincher-criticized-joker-201117/

社会的な弱者や精神障害をダシにして、儲かるエンターテイメントを作る。
弱者に寄り添ってるようで作り手たちはDCやワーナーなどの金持ち連中、ロバートデニーロ演じるマレー側の人間たちが作っている。それをみた弱者が影響され犯罪に走る。
この構図に欺瞞性を感じたし、わかりやすいエンターテイメントにすることで、個人の病気の問題、社会の問題をごちゃ混ぜにし、問題を単純化させた。わかりやすさや終盤に得られるカタルシスが扇動に繋がったと思う。

トッドフィリップスは金と名誉のことしか考えてないと思っていた。
ジョーカーフォリアドゥを見て、僕の認識は間違っていたことがわかった
訂正します。すみませんでした!
そして監督は男気みせてくれてありがとう!




アーサーフレックという人物

アーサーの目的は他人から愛されること。
これは幼少期の母親からのネグレクトに起因する。これは今作の裁判でも言及される。
自分が愛されるためにコメディアンを目指したが、人を笑わせる才能はなかった。
1作目の終盤、自殺しようとしていたアーサーは自殺をやめ、かわりにロバートデニーロ演じるマレーフランクリンを殺す。
自分が悪いか社会が悪いかという問いに、アーサーが社会が悪いと判断した瞬間だった。
そしてそれが意図せず暴動を引き起こし、ジョーカーという持たざる者の反逆のアイコンになった。
コメディアンとして評価されなかったアーサーは社会的な弱者の鬱憤を意図せず利用し、マレーなどの金持ちや、自分をバカにしてくる上級国民というぼんやりとした概念を敵と設定することで人々を楽しませ、鼓舞するエンターテイナーとなった。夢が叶ったのだ。
ちなみに、ジョーカーが笑うのは情動調節障害という病気らしい。









ジョーカーを祭り上げる人たち


前作を見てジョーカーに共感したと、前作を神格化し、実際に犯罪に走った人もいたが、今作はここにフォーカスが当たる。
アーサーという人物の本当の姿を誰も見ようとせず、ジョーカーというカリカチュアされた悪の権化だけを見る。
前作を見てジョーカーを賞賛していた観客に重なる。
神格化している人だけじゃなくジョーカーを非難する人たちも同様だ。
ジョーカーではなくアーサーとしての部分や、ネグレクトされ愛に飢えてきたアーサーの過去など、そこに着目しようとせず、人間のクズだの死刑にしろだの騒ぎ立てる。
誰もがジョーカーというアーサーの1側面しか見ていない。
裁判を舞台にして、アーサーのいい部分、悪い部分、アーサーが他者からどう見られているか、アーサーの過去などアーサーがどのような人物か陪審員と共に映画を見る観客がジャッジする作品になっている。今作に対する評価を見れば、ジョーカーに対してどのような印象を持ったかがわかる。




ジョーカーを神格化する人とジョーカーの相互関係

今まで他者に認められなかったアーサーは人に認められた。
人々はアーサーじゃなくジョーカーを求めている。
ジョーカーは人々におだてられて、自分のカリスマ性に自信を持ち始める。
今作のジョーカーはなるものではなく、エンターテイナーとしてアーサーが演じる役割なのだ。
自ら象徴になるために、ピエロのメイクをして赤いスーツを身に纏う。
自信過剰になったジョーカーは夢を持ち、裁判所をハックする妄想をしたあと、弁護士を解雇する。それだけジョーカーという虚構にアーサー自身が自信を持っているということだ。







理想と現実の狭間で葛藤

自殺したカートコバーンのように、ジョーカーという理想とアーサーという現実の間で葛藤する。中盤、アーサーは裁判でピエロのメイクをし、ジョーカーを演じることに決める。



ジョーカーが第6の殺人である、母親殺しを明かした理由

だが自信をくじくようなことが起こる。
ジョーカーを神格化する囚人の1人が、看守の暴行により殺された。つまり自分のせいで自分の信者が殺されたのだ。
自身も看守に暴行されることで、自分は悪の象徴ではなく、弱い1人の人間だということを認識させられる。
その後の裁判でジョーカーはピエロのメイクはそのままに赤いスーツを着ないで、アーサーの時のスーツを着る。
ジョーカーかアーサーかじゃなく、いい面悪い面が同時に1人の人間の中に内在しているのだ。
そして秘密にしていた6人目の殺人、母親殺しについて話始める。
自分のことを理解してもらうために、隠してきた秘密を明かすのだ。
マレーや金持ちを殺す悪者たちの味方、悪のアイコンではなく、個人的な感情から身内を殺す1人の人間だということを主張する。
ただの人間だと主張するアーサーに、悪のアイコンであるジョーカーの部分に恋をしていたハーレイクインは失望し、裁判所から去る。








共感が犯罪につながる

1作目はある種のプロパガンダ映画だった。
映画は人を扇動する力の強いメディアだ。
なぜなら主人公という乗り物に乗り、感情移入させ物語を語るからだ。
共感したキャラクターに自分の境遇を乗せ、語られる物語にこれは自分の物語だと自分の人生を乗せる。
だから映画は社会的マイノリティにエンパワーメントを与える作品にもなりえるし、ジョーカー1作目のように穿った自信、価値観を観客に与えてしまうことがある。
物語、感情移入のコアにあるもの、それが共感だ。ジョーカーは蔑まれ、バカにされてきた人たちに共感し、マレーに向けて演説をすることで人々を扇動した。
安倍晋三を射殺した山上はその境遇に共感し、同情する人が現れた。ヒッピー、反戦運動まっただなかの60年代アメリカの若者の心に漬け込んだチャールズマンソンなどの例もある。
共感させるとは、洗脳、扇動の最初の一歩なのだ。

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