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#5 ―うつ病みのうつ闇ー 愛のない結婚…発症

結婚生活というのは、とにかく我慢するものだと思っていた。愛する人と結婚するなんて、夢の中の話だ。大きな問題のない、我慢できそうな相手とすれば良い…そんな風に思っていた。

自分の育った環境を思えば無理もなかったが、今思えば、ひどい考えだった。自分にも、相手にも、失礼で無責任だった。

結婚式一週間前に『したくない』と思った結婚生活が、幸せなはずもなかった。止める勇気もなく、結婚一か月後にはストレスで熱が出た。

悪い人ではなかったが、愛していない、感覚が違いすぎる人との生活は、二人でいるのにますます孤独だった。誰かといる時に感じる孤独は、一人でいる時のそれよりも、何倍も心を蝕(むしば)んでいく…

何年かして子供ができた。嬉しかったが、複雑な気持ちになった。この子は祝福されるのに、あの子は産まれることを許されなかった。あの夏の記憶がまた蘇(よみがえ)ってきて苦しんだ。

そんな状況が子供に良いはずもない。赤ん坊も生まれてくることが不安だったんだろう。かなりの難産の末、産まれてすぐに集中治療室に運ばれた――


子供は可愛かったし、育児も楽しかった。それなのに、数年後にはうつ病で倒れた。憂鬱(ゆううつ)という言葉では、到底(とうてい)言い表せない真っ黒い霧にまとわりつかれ、締め付けられるような閉塞感(へいそくかん)に襲われる。

呼吸ができなくなり、吸っても吸っても肺に空気が入ってこない。それまで感じたことのない、寝ても起きても立っても座っても、どこにも身の置き所のない表現し難い感覚。

『この世に存在しているのが辛い』と、身体が叫んでいるかのようだった。いや、むしろ『お前が存在していることを認めない』と、脳から信号でも送られているようだった。

週に一度の通院、大量の服薬、トイレと食事と何日かおきの強制的な入浴。それ以外は、こんこんと眠った。電池が切れたように。医者に毎日必ず電話するように指示され、後で思えば少しでも様子がおかしければ、即入院させるつもりだったのだろう。

体を起こしていることすら辛く、食事が終わったとたん、その場で横になった。50㎏だった体重は3か月後に75㎏を超え、妊娠中の体重をはるかに上回り、通院のために先週履けたGパンが、今週は履けなくなっていた。

心の病気というが、確実に肉体も影響を受け、見る影もなくなっていった。

医者が「どうして病気になったと思う?」と尋ねてくる。「わからない」本当に、その時の自分にはわからなかった。どうして自分が、うつ病なんかになったのか…

わかるはずがない。自分の心と向き合うことなど、17歳の時に止めてしまった。そうでなければ、気が狂っていた。当時のミッションは『普通に生活すること』。そのためには、自分の心を『普通の生活』で隠し、その下で冷たく凍らせてしまうしかなかった。

何も感じないよう感覚を麻痺(まひ)させ、自分の本心のひと欠片(かけら)も見えなくなるように覆い隠すしかなかった。その気配さえ感じたくはなかった。そうして自分を空っぽにして生きた…

10年以上経って、とうとう仮面が剥(は)がれ、心を固めた氷も崩れ始めていた。誰も自分から目を背(そむ)け続けたり、逃げ切ることなんてできやしない…だって『自分』を生きていくしかないんだから。
 

結局数年間、うつ病で身動きできなくなった。長期に及ぶ大量の服薬で目はうつろ。横で遊ぶ我が子に目もくれない。廃人寸前(はいじんすんぜん)の状態になり、周囲も再起(さいき)を諦めるほどだったらしいが、心配した親戚がみつけた代替医療(だいたいいりょう)で、運良く回復することが出来た。

激しい好転反応(こうてんはんのう)を伴うその方法は、医者に知られれば診療拒否(しんりょうきょひ)もあり得る危険な方法であり、人に勧めることはできない。

発熱、頭痛、吐き気、めまい、15分おきのトイレ、汗や汚物の尋常(じんじょう)じゃない臭いetc…それらに耐え切れなくなって止めてしまう人も多いらしいが、開始3か月目に身体が軽くなるのを感じ始め、好転反応が収まると同時に体重も減っていった。

ぼーっとしていた頭も回転し始め、自分の中の止まっていた時間が少しずつ動き出した。

振り返れば、それまでの人生で自分のしたいことをしたことが、ほとんどなかった。常に張り詰めた空気に覆われた我が家では、ほっとすることも出来ず常に大人の顔色を伺い、その意向を先読みして行動する。

でないと、いつ癇癪玉(かんしゃくだま)が破裂するかわからない。嵐が起こるかわからない。そうやって何十年も生活するうちに、周囲の意向を生きることが身についてしまい、自分のしたいことさえわからなくなっていった。
 

激しい怒りが渦巻いていた。もう誰の言うことも聴きたくなかった。自分の生きたいように生きると思った。このままでは、死ぬ瞬間に後悔するのは目に見えていた。それがとても怖かった。

でも、これが次の地獄への入り口になる――その時の私は何十年も寝たきりでいて、突然走り出そうとした人のようなものだった。足腰は立たず、判断力もなく、社会のルールもわからない。自分に自信もなく、世間知らず特有の人の好さを持っている。

そういう人間が世間へ出ると、人を食い物にする捕食者(ほしょくしゃ)の格好(かっこう)の餌食(えじき)となる。


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