わたしの好きなものもの・11
エピソード11
映画『ゴーストワールド』
テレビ画面に映るのは、一列に並ぶ黒服の男性たちと、その真ん中でひときわ目立つ金色のドレス姿の女性。彼らがロックンロールに合わせて踊り狂うインド映画の一コマを、アパートの住人たちはまずそうに煙草を吸いながら、あるいは無気力に椅子にもたれかかりながら、いかにもつまらなそうに眺めている。そのなかにあって、赤いケープのようなものをまとった、黒縁めがねのおかっぱ少女だけは、カラフルでごちゃごちゃとした部屋のまんなかで、曲に合わせて一緒に踊り狂う。しかしそのわりにはどこか浮かない表情をしているようにも思える。画面は切り替わり、高校の卒業式。「High school is like the training wheels of the bicycle for real life.(高校とは人生という自転車の補助輪です)」という卒業生代表挨拶をする少女を、さきほどの赤いケープのおかっぱ少女が、軽蔑の眼差しで眺めている。
この出だしを、わたしはこれまでに何度観たことだろうか。映画『ゴーストワールド』はわたしが一等好きな映画だ。主人公のイーニド(ソーラ・バーチ)は、斜に構えた女子高生。親友のレベッカ(スカーレット・ヨハンソン)と二人の世界に入り込み、まわりからは変わり者扱いされている。高校卒業後は二人とも大学には進学せず、就職して二人で暮らす計画だ。ようやくバカばっかりのルーザーたちから離れられると、高校に中指を立てる二人。しかし雲行きは怪しくなる。レベッカはコーヒーショップに就職し、「毒を盛ってやりたくなる」ような客を相手に大人の階段をのぼっているが、イーニドはいつまでもふらふらとし続ける。そんなとき、レコードコレクターの冴えない中年男シーモア(スティーブ・ブシェミ)と出会い、イーニドの人生は思わぬ方向に進んでいく。
はっきりいってイーニドはトラブルメイカーだ。常に何かに苛々とし、その苛立ちをまわりにもぶつけて翻弄する。サブカル女を気取って、まわりを突っぱねているような印象を与えるが、その実、彼女は疎外感に押しつぶされそうになっている。くだらない連中ばっかりの高校を威勢よく飛び出したはいいけれど、大学に行くでもなく、就職するわけでもないため、着地する場所が見つからない。父親と二人暮らしだが、その父親も昔付き合っていた女性とよりを戻したため、家にも居場所がない。ルーザーだと見下していた同級生たちは、自分で決めた将来に向かって着実に歩みを進めている。似た者同士だったはずの親友すらも、就職して大人になっていく。「女子高生」という肩書を失い、何者でもなくなってしまった自分だけが、宙に浮いたまま、本物のルーザーになろうとしている。
イーニドのことを思うとたまらない気持ちになる。たぶん、イーニドは誰よりも純粋で素直なのだ。「変わった女の子」という周りからの印象にがんじがらめになって、「変わった女の子」でなくてはならないと思っているけれど、実はメインストリームも好きだし、同級生のイケメン男子のことも好きなのだ。思い出の品も捨てられない。そんなイーニドを見ていると、昔はとても苦しかった。なんだか自分を見ているみたいで。でも大人になったいまの私はイーニドに寄り添って、大丈夫だよと背中をさすってやりたくなる。みんなだって変わるのは恐いんだよ、大人になるのは恐いんだよ、急がなくてもいいんだよ、と。
あの結末にはさまざまな捉え方があるようで、私もいまだによくわからない。というか、観る度に考えが変わる。20年も経った映画にネタバレもなにもないとは思うけれど、もし未見で興味をもたれた方がいたら、ぜひご覧になって、どんな印象を持ったか教えていただきたい。
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