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ささくれはじんわりと治癒

数年ぶりに大学時代の友人たちと集まった。
約束の日が近づくにつれ、私の心のささくれはどんどん増えて剥けて流血した。
会えば楽しいってわかってる。前回だってそうだった。とてつもなく気が重かったのに、みんなに背中を押されて、弾むように帰った。でも、どうしても考えてしまうんですね。みんなは私なんかよりもはるか先を歩いていて、生まれてから死ぬまでの予定表に書き込まれたことを順当に的確に漏らさずこなしていて、次にやるべきこと、備えることも見えている。かたや私は、何者でもなくて、やるべきこともできていない、みんながこなしてきたことがほとんどできていない、本当に息をしているだけみたいな存在で、そんな自分が恥ずかしくて、きっと友人たちには「こいついい加減現実見ろよ」って思われるんだろうなって。それでも、断る理由がなかった。会いたくないわけではない。むしろ会いたい。会いたいけど私のことには触れずにそっとしておいてほしい、それが本音。横でヘラヘラしてみんなの話聞いてるんで、どうか私のことはお忘れください。

で、どうだったかって言えば、めちゃくちゃ楽しかった。友人の手料理はとんでもなく洒落ていておいしかったし、子どもたちはかわいかった。まったくの異業種の話を聞くのは刺激になったし、自分が小さく見えるどころかむしろ私も頑張ろうと思えた。

そうなんですよね、結局会えば楽しい。想像をはるかに超えて楽しくて、一瞬で大学の頃に戻ったみたいになる。年1、2で会ってバカ話をする女子高時代の友人たちとはまた違った楽しさ、心地よさ。

自分が自分を一番見下して馬鹿にしているからこそ、まわりが敵に見えるんだと実感しましたね。どうしようもないやつ、生きてる価値のないやつだと思われているに違いないって。でも、良くも悪くもまわりは自分のことなんて大して気にしていない。いや、気にする気にしないとはちょっと違う。適度に気にかけていてくれる。でも過度には気にしない。だからこそ、余計なことは言わないし、ネガティブなことも言わない。私だけじゃなくてみんなだってそうだったんでしょう。会っていないこの数年のあいだのこと、全部報告し合ったわけじゃないんだよ。話したくないこと、触れて欲しくないことは、黙っていたはず。そういうこともあったはず。逆に、いまだから言えるんだけど、なんて話をしてくれた友人もいた。衝撃だったし、全然そんなふうに見えなかったー! なんて驚いたけれど、つまりは、当時は「話さなかった」わけでものね。よく、何でも言い合える仲とか、お互いに嫌なことでもズケズケと言えるほどの仲、みたいなのを仲が良いことの表現としてあげるけれど、そして実際にそういう付き合い方を好む人もいるのだろうけれど、私たちは別にそういうのは求めていない。私も、友人たちも、そうやって相手の人生に突っ込むスタイルの付き合い方は望んでいない。そこが似ているようで全然似ていない私たちの唯一の共通点と言えるのかもしれないな。他人からは上っ面だけの付き合いのようにも見えるのかしら。なれ合いの関係、みたいなさ。でも、そうじゃないっていうのは、私たちが一番わかってる。

駅までの帰り道、隣を歩いていた友人が私だけに聞こえるように言った。
「ところで、病気のほうは、大丈夫?」
前回話した私の病気のこと、覚えていてくれたんだ。覚えていて、でもあえてみんなの前で話題には出さないでいてくれたんだと思ったらじんわりした。話題に出さなかった他の友人たちもそうかもしれない。あえて触れずにいてくれたのかも。ああ、会いに来て良かったな、この人たちと知り合って、友達になって良かったなと思った。そういう気遣いが自然にできて、近づきすぎず、離れすぎず、じんわり優しい友人たちのこと、やっぱり私は大好きだ。

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