「“一○○万貫”のいくさ 一天正小牧長久手合戦始末異聞」その5 (全8回)
天正十年(1582)。織田家と武田家が境い目を接する信濃は、やにわに慌しくなる。
二月。武田方の木曽福島城主、木曽義昌が織田家に寝返ったのである。木曽義昌の正室は武田信玄の娘であった。
織田信長は武田家当主、武田勝頼討伐を決断。伊那からは信長の嫡男、織田信忠。飛騨からは織田家の将、金森長近。
駿河からは徳川家康が武田家領内に攻め入ることとなる。
武田家では織田家に寝返る者が相次ぎ、衆寡敵せず、武田の諸将も城を捨てて逃げ出す有り様であった。
徳川家康も織田家と呼応して駿府へと進むと、武田勝頼の従兄で重臣の穴山梅雪が家康に寝返りをなす。
三月七日には織田の軍勢が甲斐国、甲府に進軍。同、十一日。家康も甲府に入る。
武田勝頼は落ち延びる途上で家臣の裏切りに遭い、天目山で自害するに至った。
甲府は奇妙に静まり返り、遠くから焦げた木や燃え滓の臭いが漂ってくる。
徳川の陣中。大久保忠世「あれほど我らを苦しめた武田が二か月も経たず滅ぶとは。なにやら気が抜けたような、そら恐ろしいような心持ちにございます」
徳川家康はすぐに言葉が出なかった「そうじゃな」
小姓「失礼いたしまする。織田家の長谷川秀一殿がお見えに」 家康「お通しせよ」
長谷川秀一 「こたびの参陣、いたみいりまする。ときに、近ごろ上様 (信長)は相撲会をご覧になることを好まれる」
家康「相撲会。面白そうでござるな」
長谷川秀一「左様。上様は甲府に入られて論功行賞ののち、東海道より安土に戻られる。 浜松あたりで相撲会をご覧に入れれば上様もお喜びになる。徳川殿、相撲会の手配をお頼み申す」
長谷川秀一はそれだけ告げると、徳川の陣中から出て行った。
大久保忠世「相撲会でござるか。腕自慢を集めねばなりませぬな」
すると、また小姓が取り次ぐ「殿、織田家の堀秀政殿がお見えです」
家康「堀殿が? お通しせよ」
堀秀政「今、出て行ったのは長谷川殿か。まあ、よい。徳川殿。上様は天下静謐のため、日々、励んでおられる。武田勝頼を成敗し、帰路は東海道じゃ。途中、湯治場でもあれば上様の日々のお疲れを労いたてまつることとなろう」
家康はのんきな顔をして言う「湯治場でござるか。長陣の疲れも吹き飛びそうじゃ」
堀秀政「そうであろう!徳川殿にとっても悪い話ではないはずじゃ。それではお任せしましたぞ」そう言うと堀秀政はそそくさと陣中から出る。
家康「堀殿。機を見るに敏なお方じゃ」
大久保忠世は不安げになる「殿! 相撲会を請け負うたのに、更に湯治場とは。材木を手配できるのかのう?」
再び小姓が取り次ぐ「よろしゅうございまするか」 大久保忠世「今度はなんじゃ?」
小姓「明智光秀殿がお見えです」
家康「明智殿……。お通しせよ」
明智光秀「急の訪問、失礼つかまつる。先だって安土の城を建てる折、中山道とは別に湖の浜沿いの街道を整えもうした。 此度、上様ご帰還にあたり、徳川殿には東海道の街道を整えていただきたい。もはや畿内に大名が割拠して争乱を繰り返していた頃ではない。今後は街道を整え、人や物の往来を盛んにすることが肝要。上様の道というのみならず、天下万民の道ともなろう。徳川殿、なにとぞよしなに」
明智光秀は陣幕を後にする。徳川の陣中には本多正信も同行していた。本多正信「ご高説であったな。とはいえ、上様が御通りになる道が荒れ放題というわけにも行くまい」
大久保忠世は困惑する「ううむ、相撲会の手配、湯治場の普請。更に街道を整えねばならぬとは。銭は、人足は足りるのか?」
本多正信が案を出す「おそらく、こういうことじゃ。まず街道を整える。街道が整えば人足も材木も送りやすくなる。 そして湯治場を普請し、相撲会を手配する。そうじゃな。街道を整えるにあたり東海道に触れを出し、小石やごみを拾ってきた者にびた銭一文、石を拾ってきた者にびた銭三文を関所で払うことにすれば普請も捗りましょう」
家康「ほう、妙案じゃ。ならばびた銭と言わず、もっと払いをはずんでやれば、より捗るのではないか?」
本多正信「いえ。びた銭ぐらいがちょうどよいでしょう。払いをはずみすぎては要らぬいざこざの元でござる」
家康「そういうものか。ではその段取りを正信に任せる。急ぎ浜松に戻って、取り計らうべし」
本多正信は意外そうな顔をする「え?なぜそれがしが」
家康「後学のため、正信は口だけでなく体を動かすことも知るべきじゃ」 家康に言われて二の句が継げず、本多正信は浜松に向かうのであった。
四月三日。織田信長が甲府に到着する。十日、信長は甲斐を発ち駿河から東海道を遊覧。十六日に浜松に着く。道中、徳川家康の饗応を受け、二十一日に安土城に帰還した。
徳川家康が甲斐に出陣している頃。須和は市に買い物に出ていた。
織田家の軍勢が破竹の勢いで信濃、甲斐へと進んでいるという話がしばしば聞こえてくる。
又左衛門は無事であろうか。須和は弟のことを案じていた。途中、須和は不意に呼び止められる。飯田又左衛門「姉上!」
又左衛門は行李を背負い、泥まみれ、枯れ草まみれの姿であった。
須和「又左衛門! よくここがわかったのう」
飯田又左衛門「駿河に向かい彦六に聞きました。彦六もなんとかやっておりましたぞ」
須和「そうか。彦六が」
飯田又左衛門「一条の、信龍様は八代の上野城で奮戦されるも捕まり処刑、(武田) 勝頼様も御自害。すでに信長のもとに首も届けられたとのこと。 武田家は、滅びもうした」
須和「なんと・・・・・・っ」 甲斐国で生まれた須和の胸中は複雑であった。
須和は浜松城内、長局の自分の部屋に又左衛門を通す。須和は又左衛門より詳しい話を聞く。 又左衛門「わしは新府城から落ち延びられる勝頼様をお迎えせよとの命を受け、甲府の信龍様のお屋敷に居りました。勝頼様が甲府を発たれた後、上野城に向かおうとしましたが、すでに織田の兵がうようよとしておりまして。信龍様の財物を守らんと、 取り急ぎ行李に詰めて難を逃れたのでございます。とはいえ蓄財や余りの武具など無く、屋敷の中はきれいに片付いておりましたが」
須和「信龍様らしいなさり様じゃ。では行李の中身は何じゃ?」
須和は行李をゆっくりと開ける。中には半紙や綴じ本が乱雑に詰め込まれていた。字を見ると子供の手習いのようなものも含まれていた。
須和 「これを届けるお方もなくなってしまったのじゃな」須和は両手を合わせて半紙の束や綴じ本に一礼をする。
須和「信龍さま、これを使わせていただきまする。もっとも必要とし、もっともよく活かしてくださるであろう方にお預けしよう」
四月、下旬。うららかな日差しの中、時折、ひんやりとした風が吹き込む。
東海道にて織田信長への饗応は滞りなく行われ、浜松城の御座の間では徳川家康、大久保忠世、本多正信が一息ついていた。
小姓「失礼いたしまする。女性が殿へのお目通りを願っております。信玄公の頭をお持ちした、などと申しておるのですが」
大久保忠世「信玄公の首じゃと? 信玄公が亡くなって十年が経とうとしておる。不心得者か、おおかた騙り者のたぐいじゃ。相手にするな」
武田信玄は三方ヶ原の戦いののち、元亀四年(1573) に病没している。
徳川家康「いや、会おう」 家康はぬけぬけとそのようなことを言う者を面白がっているようであった。
御座の間に通され、下座にひかえる女は須和であった。行李を持った又左衛門が付き従う。
大久保忠世「信玄公の首を持ってきた、などと申すはお前か」
須和「お目通りが叶い恐悦至極。須和と申します」
大久保忠世「お前は武家の者か」
須和「今川家家臣、神尾孫兵衛の妻にございます。夫は五年前に亡くなりました」
家康「それは気の毒なことじゃ。して、信玄公の首、というのは?」
須和「ここに」 又左衛門が進み出て、行李を差し出し蓋を開ける。
行李の中には平積みの綴じ本、半紙は角を揃えて束ねられていた。
須和「徳川様。「孫子」をお読みになったことは? 「吾妻鏡」はいかがでしょう?」
家康「ずっと戦続きであったからな。「吾妻鏡」は知っておる。読んだこともある」
須和「きっと徳川様のお役に立つと存じまする」
大久保忠世が一番上の綴じ本の一冊、半紙数枚を取り、家康に渡す。
家康は綴じ本をめくる「これは「吾妻鏡」か?」 須和「戦場での分捕りを避けるため、甲府より持ち出した物にございまする。中をあらためましたところ「吾妻鏡」、「孫子」、その他の写本。「吾妻鏡」、「孫子」につきましては注釈が書き付けてあり、それが半紙の束にございます」
家康「甲府より持ち出した、と申したな。そなたは甲斐に所縁ある者か?」
須和「我が父は武田家に仕えておりました。これらの書物はおそらく信玄公が亡くなられた際、一条信龍殿への形見分けの品であるかと。 書き付けは信玄公の注釈。書き付けを読めば「吾妻鏡」、「孫子」を信玄公が如何に読み、どこを重んじていたかが読み取れるかと存じます」
本多正信は行李から「孫子」と半紙を取り、交互に見る。須和を見ると、今や三河、遠江、駿河三国の国主となった家康を前に涼しげな微笑を浮かべていた。
家康「なるほど。たしかにこれは、信玄公の頭、じゃ。有難くいただくとしよう。そなたの望みは何じゃ?」
須和「ははっ。我が夫と我が父の二家、神尾家と飯田家をお召し抱えくださりませ」
家康は本多正信に問う「正信、どう思う?」
本多正信「そうですな。お買い得かと」
家康「では神尾家と飯田家、召し抱えることとする」
須和「有難き幸せ。忠勤はげみまする」
のちに須和の長子、神尾守世は徳川秀忠に近侍し、飯田又左衛門は徳川家家臣の成瀬正一の与力となる。
家康はお愛の方の部屋に行き、膝枕を求めた。家康は膝枕をしてもらいながら、何とはなしに言う。 家康「のう、お愛。これから日ノ本はどうなるのであろうか」
お愛「わたくし、京にはずっと公方様がいらっしゃる、甲斐は武田家の所領と思っておりました。それがいまや京には上様(信長)。 甲斐には上様の御家来衆が入られるとか。そのようになるのではございませぬか」
家康「上様というのはどのような気分なのかのう? 信長殿はかつては尾張守護代の奉行の一人に過ぎなかったのじゃ。信長殿に出来たのじゃ わしにも出来るとは思わぬか?」
お愛「あら、まあまあ。わたくし、世間と言うものは山道を一歩一歩あゆんで行くようなものと思うております。 大それたことをお考えになられますな」 お愛は家康の尻を軽くはたく。
家康は起き上がって頭を掻いた。
(その6に続く)