3月8日のシンクロニシティ
私は子供の頃からズボラな性格で、きちんとしたことができない子だった。毎日ちゃんと歯磨きをするとか、毎朝ちゃんと起きた時布団を畳むとか、部屋の片づけをするとか、学校から帰ったらまず宿題をやるとか、毎日同じことを必ずする、という習慣のもてない子だった。
そんなだらしない性格の私が最も苦手だったのが、日記をつけるという習慣だ。スケジュールを手帳に書きこみ管理するということもできたためしがない。毎年手帳を買うのだが、全く使わないまま終わることも多かった。
そういう性格だと、何年の何月何日に何をしていたかを全く憶えていないし思い出せない。
仮になんらかの事件に巻き込まれ容疑者として疑われたとして、訊かれるアリバイというものが全く立証できない。
だから過去の記憶など日時が全く曖昧で、記憶から色々な情報をもとに憶測して、日時を特定して書くことになってくる。
そうすると勘違いや間違いも無論多くなり、信用できない話しかできない人になってしまいかねない。
そんな私でも、この日に何をしたかをはっきりと記憶していることがいくつかある。
例えば、2009年5月15日。
私はこの日にきっぱりと喫煙習慣から卒業した。
以後現在までタバコは1本たりとも吸っていないから卒煙後13年目に入ったと、この年月日の記憶から判るのである。
つらつら書いたが、無論、こんな話は前ふりにすぎない。
本題は、今から34年も前の、1988年3月8日だ。
一生に何日もない、アリバイを明言できる日。
この日私は自分が何をした日か、何が起こった日かをはっきりと記憶する。
そして、この日起こったことが、今更ながら怖ろしいもののように思えてくるのである。
むろん、その「怖ろしさ」に気づいたのは今ではない。
今から4年前の2018年7月26日だ。
2018年7月26日に何が起こったかご記憶だろうか?
その話は後で書くことになる。
この日からすでに4年経っている今、その件について書く気になったということだ。
1988年3月8日が何の日かといえば、私にとって「3・09クーデター未遂事件」の前日だ。
1988年3月5日の朝3時40分頃、私は自然法司法試験に合格した。
合格してすぐ、その時わが身に起った不思議な共時現象、いわゆる頭の中でチリンと鈴が鳴った、と釈迦が比喩したと同じことが起ったこと。
それが幻聴ではなく本当に聞こえたものなのかどうかを確かめるために、TBSの朝のワイドショーに封書の手紙を送った。
送ったのは川路虹之介という筆名で認めた『遺詞集』と題した散文集のなかのいくつかで、最後に「何か聞こえませんでしたか?」と書き記した。
「鈴の音」は私の頭のなかだけではなく、そこにいるとある人にも同じものが聞こえたのではないかと思いそれを確かめようと思ったのだ。
事実を確かめるために出した封書の手紙が、やや誤解されたらしく、違う反応が生放送のテレビ画面に映った。
私の手紙に反応してのことだとは感じとれたので、少し調子にのった二通目の封書を同じ人物宛に送ったのが多分3月7日あたりだったと思われる。
そしてなんとなく手紙の意図が通じたようないい気分で3月8日を過ごしていたら思わぬことが起ったのだった。
夕食を食べるためいきつけの喫茶店を訪れたら、店の奥さんとアルバイトの女の子が、私が店に近づいてくる姿を見るなり店内で慌てた様子になり、何事かと思い入ってみると「忘れてはったよ」と言って、手袋を片方返されたである。
原付バイクに乗る時必ずつけていたスキー用の手袋で、この店に忘れて来たどころか、なくなっていることすら返されるまで気づかなかったものだったので、ひどくびっくりしてしまった。
と同時に「なんだこれは?」と思った。
手袋を片方返される、というか叩きつけるという行為は、西洋では決闘申し込みを意味する。
不吉である。
機嫌よく過ごしていたのに、それで一気に気分が変わってしまった。
もしかしたら明日誰かと決闘するような敵対的な何かが起こるのではないか、と予感したからである。
果たして次の日の3月9日にTBSワイドショー生放送中に私が「3・09クーデター未遂事件」と呼ぶ異変が起こったのだった。
クーデター未遂とは大袈裟すぎる命名で、要は私が送った手紙に舞い上がって、若気の至りで粗相をした、程度のことだったのだが、その原因を作ったのが私の手紙だったから、生放送のテレビの中で繰り広げられていることは私には大きな精神的ダメージとなった。
3月8日の夜、喫茶店で決闘を申し込まれたように思った手袋を片方返されるという事実と、3月9日に私の意図を裏切るようにTBSで起こされた事柄には、因果関係は全くないが、私には何やら不穏なことが起りそうな予感を覚える共時現象として、みごとに意味連関でつながった出来事だったのだ。
「虫の知らせ」である。
このような因果関係のない別々の所で偶然起こった二つの事柄が意味を持って繋がってくるような現象のことを分析心理学者ユングは
「共時性(シンクロニシティ)」と呼んだ。
このように1988年3月8日に起った忘れることのない出来事の意味するものは、そこまでで完結したと思っていたのだが、もしかするとそれは実に30年の長きに渡っておもいこんでいだけであって、2018年7月26日の出来事によって、別の意味連関を持つ、別の共時現象だったのではないかと思えてきたのである。
1988年3月4日に自然法司法試験に合格したと書いた。
これは実は正確ではなく、3月4日前後のいつかわからないというのが事実だ。その日その時間に起ったことをノートに書き記したのだが、何度も転居しているうちにそのノートを紛失してしまったのだ。
だから3月8日、9日に起ったことは確かに記憶するが、自然法司法試験に合格した日は、たぶん3月4日の午前4時頃としかいえない。
*と書いているが、2023年9月に、当時の出来事を書きつけたノートがみつかり、正確な日時が判明した。
自然法司法試験に合格した日時は1988年3月5日午前3時40分である。従ってここから以降は正確な日時に訂正する。
3月5日に自然法司法試験に合格した際、不思議な肉体上の変化が起った。
*2023年9月再発見したノートでは「脳味噌の皮が3度ほど薄く剥ける感じだった」と記述している。
脳内に鈴がチリンと鳴る(と比喩する脳内で声が鳴り響く現象)のが聞こえたあと尾てい骨から背筋を登って頭頂部まで、ぞぞぞぞーというような震えの波が何度も遡り、同時に首筋から肩にかけて急激に熱くなってきたのだ。
これは後に判ったことだが、チャクラが開いたことによる「クンダリニーの覚醒」と呼ぶべき変性意識状態のようだった。
それから私の体だけでなく、私を取り巻く天候などの自然現象に及ぶまで、実に不思議な共時的現象が立て続けに起こった。
3月8日の夜に起った「手袋を叩き返される」という決闘を申し込まれたような共時性は、クンダリニー覚醒のいわば連続する地震の余震のようなものだったのだ。
理解しがたい共時的現象の連鎖について、一応すべて意味連関を解明しつくしたと思っていた30年後、実はそれには別のもう一つの共時性が重なっていたのではないかと知った。
2018年7月26日とは、オウム真理教事件で死刑が確定した13人の内、6人の死刑執行が行われた日である。
興味も薄れ、私もその存在を忘れかけていたような状態だったが、死刑が執行されて、改めて興味を持って調べてみた。
そして背筋が寒くなるような事実に気づいたのである。
私が誰かに決闘を申し込まれたような嫌な予感の「虫の知らせ」を受けた1988年3月8日の夜に、オウム事件の元死刑囚広瀬健一氏が、クンダリニーの覚醒を経験したことを契機に、オウム真理教入信を決めたということが、彼の手書きの告白文に記されているのを読んだからだ。
同じ3月8日の夜に、いきつけの喫茶店で片方の手袋を返された。
もしかして手袋によって私が決闘を申し込まれたのは、実は広瀬健一氏のことではなかったのかと思えてくるからである。
自然法司法試験に合格した私に、見えないなんらかの「意志」のようなものが、「危険なことが起りそうだから、おまえなんとかしろ」と告げてきていたのではないかと思えてくるのである。
なぜなら、私が手紙を送り、たった今相手している先はTBSの朝のワイドショーだったからだ。
その後、TBSは1989年に坂本堤弁護士一家殺害事件の、発生現場といってよいような立場になる。
私があの時、TBSを受験する決心をし行動していれば、事件発生場所に立ちあい、何かに変化を加え、悪い事態を回避するための何らかの役に立っていたかもしれない。
TBS受験は、先方に一度はその意志を伝え、テレビ画面を通して受けにこい歓迎するという反応を現場の人間から受けたようだが、その後のTBS側の態度が悪く、受験しなかった。だからTBSに合格して社員になっていれば、という可能性を私は自ら拒否していたのではあった。
オウム事件というその未来に起こる悪しき出来事を「お前が行ってとめてこい」と1988年3月8日に言われていたのではないか。
ならば、私は大変な思い違いをして、私にしか果たせない重要な役割を果たさずに今まで生きてきてしまったということになるのである。
すべて「共時性(シンクロニシティ)」と呼ばれる「意味ある偶然の一致」であり、そこに因果関係などどこにもない話なのだが、「虫の知らせ」を的確に感じ取らず、やるべきことをやっていなかったとすれば、私の人生には大変悔いが残ることになり、一生十字架を背負っていかなければならないことなのかもしれないと思うのだ。