人はなぜ恋をするのか。
人はなぜ恋などするのだろうか。
この命題は昔から人々を悩ませてきたようである。
私はそんなことで悩んだ覚えはないが、悩みとして語る言葉はたまに目にすることがあった。
例えば
「恋するなんて無駄なことだと、
例えば人に言ってはみても、
貴方の誘い、拒めない」
という流行歌の歌詞があった。
四畳半フォークと蔑まれつつ喜多條忠作詞三連作(『神田川』『赤ちょうちん』『妹』)によって不動の地位を確立したフォークグループかぐや姫が解散し、そのメンバーだった南こうせつが一人になって歌った楽曲
『夢一夜』(1978)の一節だ。
南こうせつの声は女性的で女歌を唄うには適した声質だが、この女歌は喜多條のような男性が紡いだ女の虚像ではない。
作詞、阿木燿子。
夫・宇崎竜童と組んで山口百恵の「脱・青い性路線」以降の楽曲世界観を構築した作詞家であり、列記とした女性だ。
この歌詞は生身の女性の懊悩を描いていると言っていい。
人生の時間を無駄に費やすだけの恋などなぜ人はするものなのか。
恋は主体が持つ前提条件の違いによって全く違う意味を持つ変性意識状態だ。
特に性交経験を持ち、そのホログラムをいったん脳に刻み込まれてしまってからと、処女童貞の白紙状態では全く意味も目的も違ってくる。
間違った相手と性交した後にも恋はするが、それは本来歩むべき軌道を逸脱してしまった後に現れる現象だ。
性交前と後で本人には大した違いがないように思えても、進む方向が全く違うため辿り着く場所は当然のことながら全く違う。
人は自分の人生一つしか生きることはできず、その性交をした場合としなかった場合の違いを科学的に比較することはできないから軌道を外れていることすら自覚できない。
厳密にはその違いを知ることは可能だが、極めて高度な知的能力が必要になる。
例えば、私には大学時代、後にTBSで女子アナになる女性に片想いをされた経験がある。
その経緯に関する事実関係はすでに何度も文章化している。
「もし学生時代に戻れるなら、何をしたい?」
https://note.com/bright_bee106/n/n347ddf4178f4
「堂々と嘘をつき徹すことが女子アナの職務適性である」
https://note.com/bright_bee106/n/n7f353148c681
当時の私には恋愛感情は希薄だったが、彼女のほうに強い恋愛感情が存在したことは明白だった。(「もし学生時代に戻れるなら、何をしたい?」を参照)
しかしTBSの女子アナになった後、電話で話をした彼女は私に対してこう言った。
「かつて結婚しようと思った人がいたけどダメだった。
あなたに対して恋愛感情をもったことはありません」
どう考えてももんどりうって転んだというほどの一人相撲の片想い大失恋する姿をまざまざと眼前でみせられたというのに、彼女は私に対する恋愛感情はなかったと不可解な断言をしたのだ。
私はこれを「嘘をついた」と理解したが、本人には嘘をついている自覚はなかったのかもしれない。
彼女は大学に入学してすぐ学内の演劇サークルに参加した。
そして1年ですぐにカリスマ的な先輩劇団員と性交関係になった。
その劇団が好んで演じた演目が「つかこうへい」だったことからも劇団内の人間関係は推量ることができるだろう。
(「蒲田行進曲」「つか版忠臣蔵」など参照のこと)
当時の学生劇団の男女関係ほど節操を欠いたものはほかにない。
いわゆる演技指導と称して下級生の女子と性交することを当たり前のようにして問題にならなかった時代である。
結婚する見込みもない性交をすることは、むしろ大人として仲間に認められる非公式の通過儀礼であり、彼女たちにとって自慢ですらあった。
最初は徹底的に演技にダメ出しし打ちのめした後、打ちひしがれる女を飲み屋に連れて行って慰めて性交に持ち込む。
性交する目的を果たしたら、劇団の稽古場でも「大人になった」とか「色気がでるようになった」とか「演技がよくなった」と嬉しがらせを言う。
カルト教団のマインドコントロールのような手法でグルーミングをして支配するわけだ。
女の方もカリスマ的な先輩と肉体関係になったことで権力者に同一化して劇団内で大きな顔をするようになる。
くり返し性交することを求められるうちに、彼女はそれを恋だと信じ結婚を考えるようになったのだ。
ところが2年になって新しい女子団員が入団してきた途端、男は彼女への興味を失い若い新人の女子団員にグルーミングをして同じように性交関係になった。
自分以外に同じようなプロセスで性交するようになった女がいると知り、裏切られたと感じた彼女は、周囲をさんざん巻き込み劇団運営方針が気に入らないとかいって引っ掻き回した挙句一人退会してしまった。
無論、諦められたわけではないから演劇をきっぱりやめて人生やり直すということをせず、自分の大学を見下す関係のライバル校の劇団に参加して卒業まで演劇を続けるということをした。
男の私の目からみれば、タダで精液を排泄できる手頃な便所として無責任な性交をされてしまったに過ぎない関係だが、彼女にとってはそれこそが恋であり私に対してした片想いは恋と呼ぶに値しないものだった。
だから片想いをしたと明らかなのに「恋愛感情をもったことはない」と言い放ったということなのだ。
私と彼女の間には「恋」という言葉に関連付けされたホログラムの実質にに大きな齟齬があった。
そのような天と地ほども違うものを同じ「恋」として論じることも意味を語ることもできるものではない。
私が今書こうとしている「恋」は、互いに処女と童貞の段階で、結婚に至らない相手に好意感情が湧く場合に限定している。
どこの馬の骨とも分からない男と結婚する気もないのに性交しそのホログラムをしこたま脳に蓄えた女のする恋は今書く主題ではないということだ。
私が語る「恋」を描く流行歌は、女性の90%が処女で結婚した1970年代には普通に歌われ大衆に支持されてきた。
「格子戸を潜り抜け見上げる夕焼けの空に
誰が唄うのか子守歌 私の城下町
好きだとも言えずに 歩く川のほとり
行き交う人になぜか目を伏せながら心は燃えてゆく」
(小柳ルミ子『わたしの城下町』1971)
「淡い初恋消えた日は雨がしとしと降っていた。
傘にかくれて桟橋で一人見つめて泣いていた。
幼い私が胸焦がし、慕い続けた人の中は、
せんせい、せんせい。それはせんせい」
(森昌子『せんせい』1972)
「なぜ 知り合った日から半年過ぎても貴方って手も握らない
I will follow you あなたについてゆきたい
I will follow you ちょっぴり気が弱いけど素敵な人だから」
(松田聖子『赤いスイートピー』1982)
「好きだよと言えずに初恋は振り子細工の心
放課後の校庭を走る君がいた
遠くでぼくはいつでも君を探してた
浅い夢だから 胸を離れない」
(村下孝蔵『初恋』1983)
これらはすべて性交関係にない相手に対する「恋」を描写したものだ。
性交もしていない、結婚に至りもしない相手になぜ人は恋などするのか。
恋とは何ものなのか。
例えばさだまさしが『恋愛症候群』(1985)という楽曲の中で「恋」についてこう定義した。
「なにしろこれらがある特定の人にだけ反応するってことは
恋は一種のアレルギーと考えてよい」
『恋愛症候群』はとてもよく作られた楽曲で、実際に聴いてもらえれば分かると思うが、前半はほとんど冗談のように笑いを誘いながら話が進む。
しかしそれは重要な伏線で、突然メジャーコードをマイナーコードに転換すような構成になっている。
「とにかくそんな風に笑っちまったほうが傷つかずに済むってわかってるんだ誰だって。そうだろう」
と決して恋は楽しいものでもふざけたものでもないという核心を突いてくるわけだ。
無論そのようなさだまさしの言葉の妙技については別の話でありここで語る主題とは関係がない。
さだまさしが軽薄に即断してみせた「恋は一種のアレルギー反応だ」という定義は、実は案外鋭く核心を突いているといっていいものだった。
数多いる異性の中で、なぜこの人にだけ私は反応し執着するのだろうか、という答は「アレルギー」すなわち免疫反応と言ってもよい性質の変性意識状態と言える。
すでに何度も書いていることだが「元型」というシステムである。
すなわち恋は「元型由来」だということだ。
「元型由来」という言葉は私が日常的に使う用語の一つなので、別にタイトルを掲げて書いてみる。(※注1)
「元型」には、厳密に自分の人生をどう生きて自己実現するべきかという「正しい生き方」が記されている。
人は皆それぞれ自然法に従って二つとないその人生の設計図たる「元型」を持って生まれているのだが、その元型システムの中に必要不可欠なものとして「恋」をすることが予定されているのだ。
人は自らの生まれ持った元型通りの人生を生きるために必要な分だけ、恋をするように仕組まれている。
ここで言う「恋」は無論性交することなく終わる恋のことであり、処女のまま結婚することが当たり前だった時代の女性は、皆必ず実らぬ恋を経験してから結婚してきたのだ。
婚姻関係にない相手と性交することが当たり前になった今の時代の女性はその恋を全くしていない。
恋をしないまま性交し、性交した後に湧いてくる性交した相手に対して湧く執着と支配感情を恋だと錯覚している時代なのである。
何度も述べているが「元型」には「生涯一夫一妻の結婚」が将来の自己実現像として予定されている。
無論、その生涯性交するのがたった一人である相手は、生まれた時から決まっている。
そのたった一人は、生きている限り配偶する義務を負うたった一人であって死ぬまで取り替えることができない。
そのたった一人の相手とは生まれつき一つの肉体を共有している一個の生命体であり、自意識している「私」は実は本来の私の半分に過ぎない。
人間の「観察する能力」の限界で、存在界上では不可分一体の一つの命であっても、一つとして認識できず性別の違う別々の二人の個人にしかみえないわけだ。
その二人の間には物理的な距離が存在するから別々に生きているように見えているが、片方が死ねば同時に遠く離れた場所でもう片方も死んでしまう関係にあるのだ。
その結婚するべきたった一人の相手と結婚して子を成した場合、生まれてくる子供は二人の遺伝子を半分ずつ踏襲するから、両親とは別の基質を持つ異質な性格を持っている。
例えば、私は先天的に「直観型」の「男性」であるが、私と結婚するべき肉体を共有している相手は私とは全く対極に位置する「情感型」の「女性」である。
この二人から生まれてくる可能性がある子供は、
「思考型」-「男」
「思考型」-「女」
「感覚型」-「男」
「感覚型」-「女」
の四種類に限られ、自分と同じ性質の子は生れて来ないのだ。
私が「正しい結婚」を仮にしていたとするなら、生まれてくる女子は必ず「思考型」か「感覚型」かのどちらかなのだ。
ゴリゴリの科学主義的自我を形成していた思春期の頃、元型の活性化はほとんどなされておらず、異質な「情感型」や「感覚型」女子は許容するのも難しい対象だった。
私の家族構成は
父 直観型
母 思考型
兄 思考型
私 直観型
で家族にいる基質の人間なら苦もなく理解が可能だが、「感覚型」と「情感型」は私の家族の中にはいない未知な存在である。
しかも将来結婚することを自然法から義務付けられた女は「情感型」であり、生まれてくる子に「感覚型女子」が生じる確率は25%もあるわけだ。
全く未知な性格や基質の娘がいきなり生まれてきてもその父親として彼女を導くことはできない。
そこで、将来生れてくる子の父親になるために、その子と同じ基質の女性と恋をし、苦しんで彼女を受け入れる訓練を自然法は私に課した。
それが「恋」なのである。
正しく生きれば活性化できる「元型」に予定された将来生れてくる我が子と同じ基質の異性に対して私はアレルギー反応を起こしていた、ということである。
そのことに気づいたのは、高校時代から大学にかけて、恋と呼びうる感情を抱いた女子の基質についてふと思い立って調べたことがきっかけだ。
高校時代からずっと「感覚型女子」にしか恋していなかったことを知り、全く無自覚に選んでいたから、私自身驚いたほどの一致率だった。
私の「元型」には、おそらく感覚型の娘が将来生れることが予定されていたのだ。
だから私は彼女らに恋をした。
かつて三島由紀夫が『仮面の告白』のなかで、恋仲だった園子に対して性的欲望を抱かなかったのは、同性愛者だからではなく、彼女に恋をしていたからだと書いた。
三島は彼女に唯一無二といってよいほどの恋をしたために、激しい元型活性化を起こし、急激に父性を獲得した。
父性の確立した男は、男の凌辱欲から彼女を守りたいと欲求するようになる。
男の凌辱欲から女を守る、という生理反応は、自らの凌辱欲にも適用されるから、園子と性交ができなくなったわけだ。
三島自身、恋という自然法が当たり前のこととして男に課した元型活性化システムによって、父性元型が活性化して健康な父性を確立するものだということを知らなかったし、自己相対化する能力も欠けていた。
三島の園子に対する反応は、男として極めて自然で健康なものだったにもかかわらず、想定外だったために異常なのだと誤解したわけだ。
騙され裏切られた偽りの恋だったとはいえ私は、それによって父性が活性化したという実感を自らの経験を自己相対化して得ていたから、三島の『仮面の告白』の記述は全く違和感も疑問もなくすんなり腑に落ちた。
むしろそれを「同性愛者」とする世間の風潮は、そのまま私に対する侮辱だと感じたから、私は「三島由紀夫は同性愛者ではない」と述べ続けている。
三島が同性愛者なら、三島文学は生れてくることすらなかったものだからだ。
なぜ恋をするのか、の答は、正しい結婚をした時生まれてくる我が娘を、彼女の正しい生き方へと導いてやれる父親としての能力を獲得するため、なわけだ。
それを理解せず、その相手と性交しようものなら、私は本来結婚しなければいけないたった一人に辿り着く道を踏み外してしまっていただろう。
自然法が課した恋する目的を逸脱し、誤って性交をしたなら、脳に刻まれた性交ホログラムによって永久に自分のものではない他人の肉体の半分を略奪し侵略し凌辱し続ける堕落した人生を送らねばならなかっただろう。
危うく私自身が使い古しポンコツに落ちぶれてしまっていたに違いないのだ。
無論、男だけではない。女も同じだ。
若い頃、好きな男子の話をする女子が彼のどんなところが好きなのかと問われ、しばしば
「母性本能をくすぐられる」
と答えるのを聞いたことがあった。
当時は自分のことでもないのに、
「何が母性本能だ小娘の癖に!」
と男を見下しているように聞こえ反発心が湧いたものだ。
先述したTBSの定年退職した元女子アナにも、私の言うことは全く理解しようともしないし理解できもしない身でありながら
「わがまま息子」と見下す物言いをされたことがあり、当然むかついたわけだが、今思うと、母性元型が活性化していたからそのような言葉が口からでたのである。
ということは彼女は私に恋をしていたことは本人の自覚は別として客観的には事実である証左だ。
好きな彼氏に母性本能をくすぐられると感じた女子は、間違いなくその男子に恋をしていて母性元型を活性化させ、正しい人生を歩めば処女で結ばれる男との間に生まれてくるはずの男子の母親になるための、母性獲得をしようとしている姿だったのであり、決して男を見下していたわけではなかったのだ。
グルーミングされ恋をしないまま性交した女は、脳に刻まれ消せなくなった間違った相手との性交ホログラムに生涯縛られつづけ、元型活性化不全を起こす。
母性発育不全を起こし、我が子に対する母性をまともに発揮することができなくなる。
ホストや相撲取りに貢ぐ女は恋をしないまま性交をしたために母性元型活性化不全を起こし、ホストという我が子でもない男に我が子に尽くす母親のような反応で尽くしている。
子に尽くす母親のように男に尽くす女は、子を産むこともしないし、仮に子を産んだとしても男のために母性を消耗して子供の母親として健康に振舞うこともできなくなるのだ。
母性は本能ではない。
生得的に備わった母性元型を活性化させて獲得するものが母性だ。
「私には母性が欠けている」と気に病む女が、先天的に母性が欠けていると誤解していることが多いが、事実は、間違った相手と性交をして母性元型活性化を阻害された後天的要因によって、母性が獲得できていない状態に陥っているというメカニズムを正しく認識したほうがいい。
父性や母性ではなく親性だ、などと中性化させようとすること自体が経済セックス化した近代に蔓延する、フェミニズム病の症状と理解する必要がある。
(※注1)「元型由来」
https://note.com/bright_bee106/n/n38a657d1a791