![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/167474759/rectangle_large_type_2_9b763ecc7f1758a6634738a5a2a3c55b.jpeg?width=1200)
元型由来
私オリジナルの用語解説。
私が書く文章には私独自に定義した語を多用する傾向がある。
私の思想がオリジナルだからだ。
結論を出す気のない禅問答や哲学趣味を毛嫌いしている。
どこかの本から借りて来た知識を披瀝して優越感に浸るエリート知識人気取りとは全く異質な知性だ。
ネットの常識では書籍として出版され公になっていることが事実という前提でファクトチェックをするが、書籍はそもそも営利目的の産物で売るためにデマでもウケがよければ平気で事実として吹聴している。
そのオールドメディアの集金原理をそのままネット・SNSに援用したものがアテンション・エコノミーにすぎない。
新しいか古いかを問わずメディア上であたかも事実のごとく共有され大衆の語彙となったものは悉皆「日本型プロパガンダシステム」の一部に過ぎない。
私の専門は「メディア批判」であり、日本型プロパガンダシステムによって概念化され共通認識になった語の恣意性や悪意を糾すことでマインドコントロール罹患から免れようという方法論を採る。
その私がオリジナル定義の語彙を使うのはむしろ当たり前なのだ。自らの頭で考え結論を出せる者なら私が書くものを読んで意味を類推し理解することはできるが、何から何までオリジナルなら宇宙人との未知との遭遇にしかならないので、たまには語の解説でもしてやろうという趣向である。
今回はこれだ。
「元型由来」
「元型」とは分析心理学者カール・グスタフ・ユングのオリジナル概念アーキタイプス(Archetypus)の翻訳語だ。
日本で正式なプロセスを経て分析心理学者の肩書を得たり、ユング派心理療法家の資格を得ている者ですらまともに理解できていない、ユング用語の中で超がつくほど難解な語だ。
私は正統的な「ユング派」が定義する意味で「元型」を使っていない。
人が例外なくそれぞれ生得的に持って生まれてきているものが「元型」であり、それを活性化させることにより「元型」に予定された自己実現を成すよう自然法によって仕組まれている。
「元型」はすなわちその人個人の自己実現設計図のようなものだ。
全人類に通じる普遍性も各人の個別性も「元型」の中に含まれ整合して存在している。
ユング自身はその「先天性」「生得性」の存在を語ろうとした。
その試みとして自らの元型論を詳述してみせたが、彼の意図したことは全く理解してもらえなかった。
「元型が先天的生得的なもの」と言えば、必ず「本能か学習か」という生産性のない二分法に還元されてしまうからだ。
ユングは「元型」という語を用いて本能について語っているのであってそんなものは本能ではなく学習だ、と反論したがるのが知能劣化したフェミニズムや思春期性科学主義者どもだ。
「元型」を運命論として勝手に脳内変換して自己正当化の蘊蓄に利用するのが宗教・スピリチュアル・オカルト趣味者たちである。
ユングはそれらいずれにも与していない。
ユングは「本能か学習か」「先天的か後天的か」「神か科学か」「運命か偶然か」という類の二分法図式に一切与していない。
むしろ「本能でも学習でもないものとしての生得性」について語ろうとした。
それが「元型論」の真意だ。
従って人種・民族・国家に内在する伝統的価値観の基底にある共通イメージとして語りたがる元型論はユング派が元型を便利使いしているに過ぎずユングの意味するものと全く異なることばの誤用にすぎないのだ。
私の定義はユングオリジナルのものに近い。
すでに解説した記事があるが「元型(※1)」は「すべての人間が先天的に生まれ持つ自己実現像のための精密な設計図」だ。
その元型を判断基準として外界イメージや他者イメージを取捨選択して取り込み自己内在化、自画像化させる。
しかし現実には「元型」に予定された通りの自己実現を完成させている者は歴史上1人たりとも存在しない。
それが「人類」という種の現実なのだ。
すべての人間は自ら完成すべき「正しい生き方」について、生まれた時から詳細な設計図を持っていながら、それとは違った自己実現をしているため、様々なきっかけで自画像と元型に起因する自己実現像との齟齬を自覚し違和感を抱く。
間違っている「現状を変えたい」と望む。(※2)
かつて「自己実現症候群(※3)」という語の解説をしたが、この自己実現症候群が生じるメカニズムがまさにこれなのだ。
しかし元型と現実との齟齬から生じる欲求不満は、ことごとく元型が予定した生き方へ復帰する行動へとは帰結しない。
さらなる欲求不満に拍車をかける結果にすぎない代償行動に及ぶか、全く同じことを一からやり直したがる「初心帰還衝動」に縋って現状変更行動をする。
「元型」が敷いた道へ立ち戻ることは「悔い改め」だが、悔い改める人間はまず存在しない。
さらなる迷路へと突き進んだり同じ過ちを繰り返す代償行動欲求に陥ることを「煩悩」「輪廻」と呼ぶ。
このように現実に存在する事象には「煩悩由来」「代償行動欲求由来」のものが圧倒的に多いが、その運動の源泉に元型上の欲求が存在することを読み取れる場合がある。
その積極的で前向きな意味を示したいとき、私はそれを一言で「元型由来」と表現している。
「元型に反した間違った行動だが、その行動を起こさせる根本には元型通りの生き方をしたいという欲求がある」という場合に私は「元型由来」という語を使うわけだ。
つい最近Xにポストしたものにはこう書いた。
現実の心中(情死)は太宰治を挙げるまでもなく美しくもない椿事に過ぎないが浄瑠璃や歌舞伎の心中物語が人気だったのは元型を活性化する外形イメージが含まれるからだ。
本質的に元型由来だということだ。
心中物語消費欲は自ら獲得を諦めた、得たくて得られないオルガスムス代償行動欲求である。
これ以外のすでに述べたものについてはここを参照されたい。
https://x.com/search?q=from%3ASleepingcat184 元型由来&src=typed_query
人形浄瑠璃や歌舞伎、さらには落語や小説、映画に至るまで男女の情死たる「心中」が美しくロマンティックなものとして描かれる傾向がある。
三島由紀夫の『憂国』などは、三島の理想とした夫婦和合のあり方であり「心中論」だが、これら「心中」というテーマには元型に由来するイメージが含まれている。
思春期痩せ病と呼ばれる摂食障害は、第二次性徴期を機に湧き上がる元型に基づく自己完成欲求が原因している。
そういう場合に「元型由来」という語を使っていることが読み取れることだろう。
※ ※ ※
(※1)「元型」については「元型の話」を参照。
https://note.com/bright_bee106/n/n4dd31dc7520c
(※2)「現状を変えたいと望む」多くの場合、欲求不満は他人に起因するとし、自らは怠惰な現状をそのまま生きつつ他人の生き方を変更させたがる。それが「リベラル」「自由主義」の姿だ。リベラルは万人に平等しく保障しようする自由ではない。得手勝手な自らの自由を、他人を犠牲にして作り出そうとするのがリベラルの政治行動だ。
(※3)「自己実現症候群」https://note.com/bright_bee106/n/ncfaf9b413922