母の手作り弁当の話
亡くなるまで母には知らせなかった、わが母に関する私の事実話をする。
私は男二人兄弟の二男だ。
高校生ぐらいの頃だったと思うが、姓名判断を占う屋台がでていたので見てもらったと母が私に言った。
兄と私と二人分占ってもらったところ、
「こちらの方が将来親御さんの面倒をみられますね」
と占い師が言って指すのは私の名だった。
母はもちろん長男である兄の世話になるつもりでいたから何かの間違いではないかと思い、
「そっちは二男のほうですけど?」
と聞き返したが、占い師はやはり、
「弟さんのほうが面倒みられます」
ときっぱり言い切ったらしい。
納得いかない顔をしながら、そのことを母は私に報告したのだ。
そういう話を聴くのは常に私の方で、兄は母とはそんな会話はしない。
それから40年以上経った今、当時の占いが当たったのか外れか、結果は当然すでにでている。
二男である私が父も母も両方介護し看取って葬式もだしたので、姓名判断の結果はむろん大当たりだ。
兄は両親が亡くなるはるか前の1995年7月に遠く離れた岐阜県岐阜市で亡くなっているから介護などできるはずもなく当然の成り行きだが、おそらく兄が生きていても同じ結果になっていた。
兄と私との性格は対蹠的だ。
兄は家族間の諍いごとを好まず、私と母が口喧嘩をしていても、止めることも係わることもなくすり抜けて自分の部屋へ行ってしまう。
私は母に何でも思ったことは言い、母から言われて納得できない場合は言い返す。だからしょっちゅう口喧嘩になった。
そういう関係だと母も話しやすいのは私の方だから母の昔語りを聴いてあげるのは私の役目で、まるで自分が見聞きしたことのように母のことを語ることができるようになってしまった。
兄は両親や私に対して頗る無関心で自分のことも話したがらなかった。
両親に対して常にいい顔をしてみせようとする性格だ。
そういう子は嘘も隠し事も多い。
7人兄弟姉妹の中でのせめぎ合いや葛藤を嫌というほど経験し苦労をして育った母は、そういう長男の性格を見抜き気に病んでいた。
今の私からすれば、兄は何らかの人格障害をもっており、それに気づいた母が心配して注意を払う対象が兄のほうに偏ったのだろうと理解できるが、幼かった私には兄の方ばかりが可愛がられ贔屓されているとしか思えなかった。
察しの早い性格だったから、私は大事にされていないのだろうと思い、早々に母への精神的な依存心を無くしてしまったような気がする。
小さい頃から孤独感があり、それが当たり前のような世界に生きていた。
私にアダルト・チルドレン(AC)的性質があるのは、人の心が読めてしまう天稟と母の注意が兄の方に過度に向いていた生育環境によるものと思われる。
※アダルト・チルドレン(AC)とは、アルコール依存症や問題を抱えた親の元に生まれ育ち、子供らしい子供時代を送ることができず、幼くして大人になることを強いられた人たち、という意味であって、決して大人になれない幼稚な子供のような大人という意味ではない。大人になれないのではなく、幼いころから大人だった大人のことである。
兄は数学がスバ抜けて優秀で親戚からも頭も性格もいいと評価されており、母の敷いたレールに乗って私大の薬学部に自宅から通って薬剤師になった。
私は親戚から兄に比べて弟はダメだと陰口を枕元で囁かれたこともあり、母の敷いたレールに全く乗らず、京都の私立文系大学に進んで下宿生活をした。
同じ兄弟ながらこうも違うかというほど違っていたと言っていい。
下宿して大学に通っていた頃、筆まめだった母からよくハガキや封書の手紙が届いた。
それを一応読んでみるが返事を書くどころか、手紙が届いたことを知らせる電話すらかけたことがない。
母にすれば電話一本すらよこさない息子に不満だったり心配していたりするだろうことはWTC-K女史が二男について書いた手記を読むと計り知れるが、その頃の男子は自分のことで手一杯で親のことなど構ってはいられない心境であろうと自らの経験知としてもよく分かる。
私が今大学生なら母からのLineメッセージやメールはすべて既読スルーしただろう。
そんな母からの一方通行の通信をやり過ごすような生活をしていたある日、下宿の扉に大家からのメモが挟んであった。
実家からの届け物があるから至急大家宅へ来い、というのだ。
私の居宅は下宿とは言っていたが間借りではなかった。
一棟20部屋ほどあるプレハブ二階建ての学生アパートが二棟あり、その四畳半一間の部屋に暮らしていた。
風呂・トイレ・炊事場・洗濯機・電話すべて共用で、入居しているのは全員同じ大学の男子学生ばかりである。
不動産屋を仲介させない大学生協の斡旋のみのアパートで、家賃は月額15,000円だった。
御室川という川べりにそのアパートは建っていた。
私の部屋は2階にあり、廊下の突き当りの窓から川の上流を眺めると、姿はみえないがそこに滝があることが音によって判然とした。
まさに地名通りの「鳴滝」が望める場所に建てられた学生アパートだったのだ。
滝の真上にはTBSでエロバカ女子アナになる前の〇峰□紀が暮らす3階建てのワンルームマンションが建っていた。
その学生アパートの東隣りに古ぼけた木造平屋住宅が建っていてそこが大家の居宅だった。
メモを読んですぐに大家のもとに届け物を取りに行き受け取って閉口した。
母から届いたものが現金書留だったからだ。
流石にこの時は即座に実家に電話をかけた。
母は仕送りのつもりだったらしいが、現金書留の送り賃が無駄だから「こんなもの送ってくるな」と強く抗議した。
私が大学に合格し下宿生活をすると決まった時、母が私名義の銀行口座を作って通帳と判子は手元に置き、キャシュカードだけを私に持たせた。
そのカードで毎月の生活費を銀行までおろしにいくことになっていたのだが、月々の仕送りを入金しようと思い母が銀行に行ってみたら、先月入金した仕送りがまだ引き落とされおらず金に困っているのではないかと思って慌てて振り込むつもりの金を送って来たという。
食事は学食や大学周辺に点在する貧乏学生向け食堂の安い定食で事足りる上に間食もしない余計なものは何も買わないからほとんど金は使わない。
実家近くの私の口座のある都市銀行と同じ銀行の京都にある支店で最も近いのは西大路円町で、そこまで自転車でいくのが面倒くさかったから金がなくなるまでおろしにいかなかっただけなのだ。
母は私が予想以上に金を使わないことが心配になった。
物欲のない息子を持つと、それはそれで母親には心配事になるらしい。
大学に入学して一年が経つ頃、例の19歳の女子との偽りの交際を断り、毎日死ぬことばかり考えるようになった。
処女と童貞で結婚し生涯添い遂げる、という譲ることのできない未来の設計図が跡形もなく破壊されたことの苦痛はすさまじく、死んだほうが楽なように思えたのだ。
京都の下宿にいてもどこかに行ってしまいたくなるし、実家に帰ってもそこにいるのが苦しくてすぐに京都の部屋に戻りたくなる。
この世のどこにも居場所がないように感じていた。
未来を見失った生活は全く立て直すことができず、大学に入ってやろうと思っていたことはすべてできなくなった。
美しいと感じるものを自らの指で描きとめる絵描き志望なのに、花だとか緑だとか青い空だとか見なくもなかった。
宅浪中のほとんど戯れていたに等しかった英語学習によって意外にも英語模試の成績が偏差値70にもなったのでそのまま続けようと思っていた英語学習も全く頓挫した。
そんな状態でまた夏休みに入り、実家に帰省しても何もする気が起こらず食っちゃ寝を繰り返すだけだった。
大学時代の夏休みは7月初旬に始まり9月に入った頃終わるから2ヶ月もある。
そのすべての期間何もせずに実家でゴロゴロしていたのだ。
母にすれば待ちに待った息子の帰省だから嬉しいに決まっているが、その喜びもせいぜい1週間ほどで、それを過ぎると高校以前の、互いの存在に煩わしさを感じる親子関係に立ち返ってしまう。
毎日ほどんど会話をすることなく私は母が作った飯を食い、テレビを観て風呂に入って寝る。
時々トイレに行くついでに母の居室を覗くと、昔と変わりなくこちらに背中を向けて座り、夜遅くまで着物仕立て仕事を黙々と続けている母の姿をみて、私は声をかけずそのまま2階のかつての勉強部屋へ帰るだけだった。
そうやって2月を何もせずにだらだら過ごして、あと数日で大学の後期講義が始まる頃になると、気まぐれに京都の下宿に帰る日を決めた。
明日帰るという日の前日、急に母に向かって脈絡もなくこういうのだ。
「明日の昼頃、京都に帰るわな」
母は何と答えたのか憶えていないが、そうとかふうんとか、そんな程度の答だっただろうと思われる。
私が大学のある京都に戻ると知った母は、帰る当日の早朝から台所に立つ。
そして旅立つ準備を整える私の元へやってきて、「これもって行き」といって古新聞に包んだものを渡してくれるのである。
夜勤明けで寝ていた感情表現の下手な父がぬっと起きて来て、駅まで送って行ってやるという。
母から受け取った荷物で重くなった鞄を抱え、ヘルメットをかぶって父のスーパーカブの荷台に跨って、山陽電鉄の最寄り駅まで送ってもらうのだ。
小学生時代、父は融通の利かない小汚いオヤジだと思っていた。
父親参観にやってきた父の貧相な姿が恥ずかしく、この人と父子であることを世間に知られたくないような気持ちでいたが、一年以上を離れて暮らし、生きる命の色調がネガティヴフィルムのように反転すると随分見える風景も違ってくる。
父の背中にしがみつきながら、涙がこぼれそうになった。
父が自らバイクを走らせ、駅までおくってやるなど絶対言わない人だったはずである。
父と私の関係も間違いなく昔と違っていた。
私鉄電車を乗り継ぎ、京都市バスに乗り換えて凡そ四時間を費やして鳴滝の傍の下宿に辿り着く頃には、夕暮れ時になっている。
下宿の四畳半の部屋に落ち着いて、母に持たされた包みを開いてみる。
中身は折箱に詰めた、小学校の遠足を想い出すような豪華な弁当だった。
母は昭和8年生まれで戦時中に国民学校生だった。
その頃は祖父(母の父)も存命で家業の米屋の商売も堅調だったから裕福な家の箱入り娘だ。
米屋だから当然昼食の弁当も学校に持っていける。
しかし、同級生には弁当を持参しない子たちがいて、昼食時になると「家にご飯があるから」と言って教師に許可をもらって一時帰宅したのだという。
しかし母は子供ながらにそれが嘘だと気づいていた。
貧しい家の子は家に帰ったって食べるご飯などない。
そのことを知られたくないから、家に食べに帰ると嘘をつき、近くの川の土手で時間を潰して帰ってくるのだ。
母はそのような子たちが可哀相だったとよく述懐していた。何度も想い出しては可哀相だったと言った。
貧しい子たちが弁当をみんなの前で広げて食べられないことを裕福な身分ながら悲しいと感じて育った母は、我が子にそんな思いをさせたくなかったのだろう、どんなに家計が苦しくても、遠足や運動会や特別な学校行事の時持たせてくれる弁当は、誰にも負けないほど豪華だった。
海苔を撒いた俵結びに、卵焼き、から揚げ、タコウインナー、ハンバーグポテトサラダに真っ赤なイチゴなど。
いつも弁当の折箱の蓋を開けるのが楽しみだったのだ。
大学生になって夏休み終わりに母がもたせてくれたものは、小学生の頃を想い出すようなとても豪華なお弁当だった。
それを独りで食べながら四畳半の部屋で私の目からは涙がぽろぽろこぼれた。
同居している時は反抗し倒して、親が死んでも泣かない自信があったのに、母の作った弁当を食べながら私は沢山涙をこぼした。
そして、この人を置いて先に死ぬことはできないように思った。
晩年認知症を患った母を7年に渡って介護した際、私が食事を作って食べさせる立場になったから、完全におふくろの味を忘れた。
同時に母が正気の内にそれを教えてもらって作れるようになっておくべきだったと思った。
母の味覚に合わないものを作って食べさせることは、介護する側としても心苦しいことだからだ。
将来親の介護をしなければいけない時、親からおふくろの味を教わらなかったことを後悔する。
だから文句を言わずに、家事労働を女におしつけるなと莫迦なフェミニズム病患者の戯言などに耳を貸さず、小さい頃から母親の作る料理を学んでおくべきだ。
今となっては私の味覚に母の作った料理の味など微塵も残らないが、涙をこぼし、鼻水啜りながら食べた母手作り弁当の味と情景は、今でも鮮明に憶えている。
私が一人下宿でぽろぽろ泣いたように、私が京都へ帰っていなくなった日の夜、実家に残された母も、きっとぽろぽろ泣いていたに違いない。
私が母にそのことを言わなかったように、母もそのことを私に言わないままこの世を去って行ったのだろうと思う。
母と息子はそういうものだ。
母が決して言わなかったことを想ってみて改めて知る、ということを今の私は幸せなことだと感じている。
母の知らないところで、男の子は母を想って泣くことがある。
娘を持った母親の倖せとはまた違った倖せが、男の子を育てた母にもあるものだ。
母の二男に生まれ育った私の実体験として、二男の息子を育てた母たるWTC-K女史にはそう教えてあげたいと思う。