一人称で変わる文体と人格
一人称・読者の設定
だれが書くか。だれに書くか。
きょうは、どの自分で、書いている?
ってのは、書いてると気づかないです。
たぶん、無意識に使いわけてるんです。
自分を意識するときに、「一人称」を
意識するだけで、新しい自分に出会えそうです
ものを書くことは、世界に風を吹き込むこと。
なにもまだ吹き込んでないけど、
そのことを強く思います。
それに、自分自身に風を吹き込むのが、
書くということだなあと、つくづく。
小学生くらいまでは、
親に呼ばれる名前で、自分のことを
一人称で語ります(例 まあくん)
やがて、それが恥ずかしいことに思えて、
おれ、とイキってみたり。
行きすぎて僕に変えて。
社会人になると、私だし。
でも友人の前では俺だし。
親の前では、またそれが変わったりして。
これが、話し言葉の時と、
書き言葉になるとまた違ってまた面白い。
そしてまた相手によっても、
変わり続けるもの。
不在が、存在を強調する。
わたしは臆病なので、
集団で声を発しない、
広い部屋では隅っこに座る、
集団下校は1番後ろ。
それって、姿を消しているようで、
実は、主張していたことに気づく。
ここにいるよ、と知らせたい。
ちょっと格好わるい、今思うと。
不は有の裏返し。
一人称の使い方によって、
その存在を大きくも小さくもする。
一人称は、生き方になる。
一人称は、文体をも変える。
生き方は、文体に現れる。というような
ことを教わって書いたことがあります。
文体、っていう言葉自体が新鮮で、
そんなこと学校で教わらないし、
好きな本を読んでる時も知らないうちに、
ハマってるものであってあまり意識しないけど
文の体。
書くことは、身体的な運動だし、
それの主体は自分だから、
一人称は、とっても大事。
人に支持されて、手足を動かすのではなくて、
自らの意思で、ある一人称が、
指先を動かす。と、文が動く。
ORでなくて、ANDでいいんですね。
ホッとします。
たいせつにとっておきたい、自分の呼び名。
文体は、人格。
そして人格は、何人あってもいいんだよ。
変えるのではなく、変わる方法が
書くことであり、一人称の使い分けであり、
わたしも、おれも、あたいも、まあくんも、
生かして生きてゆく。
自分を好きでいられそうだ。
生まれ変わるなら、生きてるうちに。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます
中秋の名月の翌日が満月で、
魚の目のようでした。
魚のような、流れを追う目で、見つめてみる。