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常套句と美しい文章


常套句はライターの「目を狂わせる」!?!

「三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾」
近藤康太郎さん

今日の、この海が、どう美しいのか。別の日、別の場所の海と、どう違うのか。そこを、自分だけの言葉で描き出すのが、文章を書くことの最初であり、最後です。
自分が感じた美しさを、読者にも分かってもらいたい。伝えたい。だから書く。ところが多くの場合、読者だけではなく、自分にもその「美しさ」は、分かっていないんです。見えていないんです。

同上


「文章を書くことの、最初であり、最後」

ん?わかりません。
どういうこと!ってなりました。
つまり、全てということでしょうか。

自分だけの言葉とは、何か。
それは、他人との差分ではなく、
時と場所の違いによる違い。

同じ自分が、同じ空を見たとしても、
きのうときょうで、どう違うのか。
平日の空と、土日の空はなぜ違うのか。

伝えたい熱量をどれだけ違えるのか。

だなんて、自分が一番わかってなくて、
自分が言葉にできてなかったな。
無意識が過ぎました。

見えてないのではなく、
見ようとしてなかったし、
見ようとするだけでも、言葉が変わる。

どれだけ読者にわかってもらおうという、
気概をもてていたか?

それが、自分との差分。



海や旋律や人物の美しさを、まず自分が分かっていない。言葉にしていない。つまり、考えていない。「美しい」と、なんとなく感じているだけで、それを「鏡のように静かな海」とか「抜けるような青い空」「燃えるような紅葉」「甘いメロディー」
「エッジの立ったギター」と常套句で、他人の表現・他人の頭で代用して書いているだけなんです。
なぜこの海が、この旋律だけが美しいのか。「このわたし」の胸に迫ってくるのか。
慰め、励ますのか。その切実が、言葉に結晶していない。

同上

常套句まみれの文章だったなあ。

そんなこと書くと、読んでいただいたときに
常套句アゲイン!となって読み進めてもらえないこと覚悟で、自白します。


で、そこからが出発点。

なぜ、冒頭の写真の空が美しいと感じたのか?

竹やぶと、木が混ざってる先にある太陽は、
光の差す隙間が、竹だけ木だけよりも
歪(いびつ)で、不揃いだから、美しく見えた

んです。

あ、そういえば、
「言わなくてもわかる」だろうというエゴ
だったな。というのと、
「言いたいことを言う」エゴでええやん。

と、気づきました。


「言葉にできない美しさ」と、よく人はいいますが、それは言葉にできないのではない。考えていない。もっといえば、当の美しさを、ほんとうには感じてさえいないからなんです。
先人たちが紡いできた、それなりに豊かな言語世界でも、自分のいまの感じを十全に表現できない。ここではないどこかを目指す。そういう、ほとんど負けることがわかっている戦いに身を投じる必然性のある「困った人たち」に開かれた荒野が言葉であり、わざわざ文章を書くというのは、その荒れ野に、われとわが身とを差し出すということなんです

同上


いままで逃げてました。
言葉にならないと言うこと自体が美しいと。

われと我が身を差し出してみました。
捨て身の方が、美しい。


文章を書くのはなんのためか。ひとつだけここで言えるのは、いやしくもプロのライターなら、狭量と不寛容と底意地の悪さにあふれた、争いばかりのこの世界を、ほんの少しでも住みやすくするため、生きやすくするため、肺臓に多量の空気が入ってくるために、書いているのではないのか?そうでなければいったいなんのため、机にしがみつき、晩がし、腰を悪くし、肩こりに悩まされつつ、辛気くさく文字を連ね、並び替え、書いては消し、消しては書いてを繰り返すのか。

同上


生きにくくしていました。
自分を、世を。自白します。

プロではないけど、世に出すのなら、
世の風向きを少しでも変えたい。

ならば、常套句を、変えてみる工夫を。

今日もお読みいただきありがとうございます。

写真には映らない言葉を書いてゆきたいです。

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