
「夢の旅」
夢の旅
ある時期までの日本では、ハワイへの旅が「夢の旅」の代名詞になっていた。私も少年時代、テレビの番組で「クイズを当てて夢のハワイに行きましょう」という司会者の言葉を何の違和感もなく受け止めていた記憶がある
42歳の私にも、「クイズを当てて」は
ハワイだったし、今でも「夢の旅」は
ハワイなのかもしれない。
ハワイでなくてもいいけど、
「ハワイにしておく」ことで、
人生が色褪せなくて済む。
考えなくて、済む。
わたしにとっての夢の旅?
あなたにとっての夢の旅?
どこにいくかより、
誰といくか。
ひとりでいくなら、
いつにいくのか。
夢というくらいだから、
お金を気にしなければ、
何をする旅なのか。
夢の旅?を考えていいんだよ、
ってこと自体が、現代の現在に生きる
わたしにとっての旅、といっても、
大袈裟ではなくて本気だ。
現代では、たとえどんなに遠くであっても行って行かれないことはなくなってきたという意味において、「夢の旅」というものが存在しにくくなっているように思える。
とすれば、現代の「夢の旅」は空間ではなく、時間を超えた旅、過去への旅ということになるのだろうか。
未来への旅ではなく、
過去への旅。
ドラえもんのタイムマシーンは、夢の旅。
史学科、というところで大学を過ごしたからか
歴史は好きだし、ロマンもあるし、
美化された時間だけが生きている気もする。
そこへ旅ができたなら、何を求めていくのか。
現実逃避か、
自分の過去や人類の歴史をやり直すのか、
はたまた、ただ、現代との違いを見たい、
好奇心だけなのか。
単なる旅であって、タイムスリーパーではない
から、時間を巻き戻せたりしないけど、
そこに「夢」があるのは確かだ。
未来にゆけばそれは、
儚いだけのものかもしれないから。
しかし、もう少し現実的な「夢の旅」がないわけではない。いつだったか、偶然つけたテレビで、壁に貼った日本地図に向かってダーツを投げ、突き刺さったところに取材に向かうという番組を放送していた。それを見た瞬間、これぞ私にとっての「夢の旅」だと思った。
ダーツの旅は、見ていて楽しかった。
偶然か、やらせか、はわからないけど、
きっとそこにはロマンがあった。
私は旅をするとき、出発する前にどこをどう回るかなどということを事細かく調べたりしない。
予習してしまう。
ガイドブック、インターネット、SNSで、
旅を予習しては計画立てて、
「無駄のない効率的な、損のないコスパ」
でゆく旅は果たして旅なのか。
(といってめちゃくちゃ調べるのが私の趣味)
予期せぬ旅には縁があり、
予習した旅には縁が少ない。
縁、というもの。
縁、というものがある。
眼には見えないが強く存在する何らかの関わり、というような意味と私は理解してい
る。
この縁、人と人とを結びつけるものを指すことが多いが、地縁というように人と土地との間にも確かに存在するような気がする。
地縁。
生まれて初めてのエッセイを書いたときには、
生まれ育った大阪を書いた。
かなり意識的に大阪を書いた。
眼には見えない強い引力がはたらいた、
というより働かせた。
地縁は、縁より、切り離せないから、
愛着もまた切り離せない、
自分の構成要素。
生まれ育った土地に縁があるのはもちろんだが、単なる旅先の土地であっても、そこに縁を感じたり、縁が生まれたりすることがある。
旅先もまた、第二の故郷とまで
いえるものになったりする。
旅は、自分の意思と行動でしか動かないもので
人から押し付けられたり指示されるものでない
とすると、旅も縁も、自らの人生を
自ら選び取るものの象徴でしかない。
秋は、選択肢が増えるので選び取る季節。
きょうもお付き合いくださりありがとう
ございます。
中秋の名月、と名詞で言ってしまうよりも、
中秋が名月、と自ら名付けて動かしてみたい。