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「また行きたい場所」と「また会いたい人」

noteを書き始めて来週でまる一年。
「毎日書く」ことを自分に課したこともあり、
書くためのアンテナは、本や、日常や、生活に
それ以前より感度高くなりました。

特に、旅。旅先。
旅行先は、感度が倍あがります。
あの感じはなんなんでしょうね、不思議です。

で、読み方が変わったのが飛行機の機内誌。
スマホが使えない機内はとかく手持ち無沙汰に
なりがちなので、機内誌に頼りますが、
これがまた「読む」体ではなく、
「書く」つもりで読むので、味わいが変わります


スカイマーク機内誌
「空の足跡」12月神戸のなかにある旅エッセイ
「ユウキがいく。。」より。
↓今度エッセイ本になるそうです。


テーマ「また行きたい場所」

「また行きたい」と、「何度でも行きたい」と、「住みたい」は少しずつ違う。日本語が通じる、家族がいる、仕事がある、友達がいる、という理由で、暮らしていくなら圧倒的に日本であることは言うまでもないが、上記の条件を一旦無視するならば、「住みたい」のはサンディエゴ(アメリカ)で、「何度でも行きたい」のはバルセロナ(スペイン)。多くの場合、旅に求めるのは非日常”であり、未体験なことや想像もつかないことが起こってこそ旅を感じられようというもの。

スカイマーク機内誌
「空の足跡」
高森勇旗

あんまり考えたことなかったけど、
「また行きたい」「何度でも行きたい」も
違いますねたしかに。

「また」には、非日常な刺激を含み、
「何度でも」には、安心感や安堵感が包む。

また会いたい人 というのと
何度でも会いたい人 との違いに似ている
かもしれない。

一緒に住みたい人 となればまた大きく
また、や、何度でも、とも異なってくる。


しかし、それはあくまで非”日常であるため、「住む」には刺激が強すぎる。そして、インドのように刺激が振り切ってしまうと、私の場合「また行きたい」とはなりづらい。
さらに、「また」と言っているくらいなので、ある程度距離が離れていないと「また」という言葉はついてこない。韓国や台湾は素晴らしい旅行先だが、”また"行きたいと言うには近すぎる。前置きが非常に長くなったが、私にとって”また"行きたい場所といえば、南アフリカのサファリだ。

同上

そこに「距離感」が加わることもまた面白い。

「また」行きたいところは、近すぎると
そのありがたみや、刺激は薄くなる。
ある程度距離があり、
「行きたくても行けない」
「会いたくても会えない」ところに、
行きたい欲が生まれるように、
愛が育まれるように、
非日常だからこその快がある。

想像しているよりもはるかに安全で、快適な環境で体験できるサファリは、非日常という意味ではこれ以上ないだろう。
なんと言っても、動物たちの美しさは想像以上だ。サファリに生息する動物たちは、一様に筋肉が締まっている。無駄な捕食をしないため、必要最低限の肉しかついていない。そうでないと、走れないためだ。そして、全くと言っていいほどにおいがない。動物園では独特のにおいがつきものであるが、サファリはその広大さもあってか、ほとんどにおいを感じない。食べるものから排泄物まで、全てが自然のサイクルの中にあり、異臭は発生する間もなく昆虫や微生物によって分解されていくためだ。

同上

サファリは、危険だし、環境も安心でない
イメージがあったけれどそうではないんですね

「また行きたい」場所には、
イメージと違ってギャップ萌えするような
ところがあって思いがけない出会いや発見を
含む。
想像を超えるから非日常なんだろう。
それは一度目と二度目でも差がある。

「また聴きたい曲」
「また読みたい本」は
一度目と二度目とで味わいが変わるように。

無駄に食べないことが、身体を引き締める、
美しい身体をつくる。

動物園の動物たちの姿や匂いとの違いが、
「本当の自然」との違いに現れてくるなんて、
きっと現地に行かないと見えてこない。

そして、一度では気づかない美しさや背景にも
二度三度「また」行くことで気づけるんだろう

「また会いたい人」は、会うほどにその人の魅力
を感じられてくるのと似ている。

我々が近づくと群れで逃げていくインパラの美しい走り方、横目で警戒しながら草をはむシマウマ、圧倒的な大きさのキリン、好奇心旺盛に近づいてくるゾウの子ども。動物園で何度も見てきた動物たちだが、初めて見たかのような衝撃的な感動。
毛並みの美しさ、筋肉のしなやかさ、動きの軽快さ、野生の本来の動きは、「生きる」ということを無条件に教えてくれているようであった。

同上

「生きる」ということを教えてくれる
だけでなく
「無条件で」教えてくれるのだからすごい。

「また会いたい」人もまた、無条件だ。
そこに利害はない。

「また」会うことで、前回から今回のあいだに
生きた証を確認し合うような時間もまた尊い。

その人が教えてくれることでもあり、
ふたりのあいだにある、空気や時間が、
教えてくれることでもある。

群れで動くメスライオンは、我々が乗ったジープが近づいても逃げるそぶりさえ見せない。目の前を堂々と歩き、時には横になって寝てしまうことさえある。エンジン音をならして圧力をかけると、めんどくさそうに一応道を開けてくれるが、オスライオンは違う。

同上

自由だ。

だけど、メスライオン側からすれば、
自分たちはいつもどおりしているだけで、
人間側がまあ、自由にしてくるよなあ、
と思ってるかもしれない。

自由はいつも堂々としている。

「また」行きたい場所や会いたい人は
どこか緊張感がある。

「何度も」行きたい場所や会いたい人は
自由だ。「まあゆっくりしていきな」感。
Take your time.

単独で動くオスライオンが正面からのっしのっしとやってくる。ジープと真っ直ぐ相対する形となり距離が縮まっていくが、向こうは全く避ける気配がない。
いや、避けるとか、避けないとか、そういう次元ではない。こちらをどかそうという迫力を出すことも、威圧してくこともない。我々を、敵とも、障害物とも思っていないかのようだ。そう、眼中にないのだ。真に強いものは、強さを誇示する必要がない。彼は、自分が誰なのかをよく知っている。このサファリの頂点に君臨する、百獣の王なのだ。

同上

真に強いものは、強さを誇示する必要がない。
強さを誇示する文章は、どこか弱さを含む。
敵とも、障害物とも思ってない文章は、
堂々としている。
君臨していると言うおこがましさも、
もはや滲み出す必要もないくらいに。

何度でも読みたい文章は、そういうもの
かもしれない。

夜になれば、満天の星空の下で狩りを行うライオンを見にいき、朝はしっとりとした朝焼けの中で活動を始める動物たちを見る。呼吸も、まばたきも忘れて見入った南アフリカのサファリは、まさに”また"行きたい場所である。

同上

呼吸も、まばたきも忘れるような、
また行きたい場所を探すこと自体が、
生きる目的であり生きることそのもの
かもしれない。

そのためにも、何度でも行きたい場所、
会いたい人、住みたい日常も欠かせないん
だろうなあ。

旅も本も、読むことも書くことも、生きること

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。

今日の本心
どこか遠くにいきたいなあ。

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