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「他者といる技法」


あなたは他者といるときいったいなにをしていますか?
漠然とした問いだが、その答えとして思いつくものを列挙したとしてどれくらいのことが並ぶだろうか。私はこんなふうに思う。他者といる場所、そこにはある「技法」がつねに存在する。おそらくその技法を、ほとんどの人がすでに身につけていていつもやっている。

「他者といる技法
コミュニケーションの社会学」
奥村隆一

そんなこと、考えたこともなかったので
目が丸くなりました。
考えてみましたが、しゃべってるか、スマホしてるか、窓の外を眺めているか。相手の様子を見ているかー。かな。

そしてまさか、「技法」?なんてことも
意識したことはなかったです。

いま思いついた答えを頭の隅に残してもらっておいて、次にこんな想像をしたら私はときどき想像してちょっとぎょっとするのだがーどうだろう。その他者がある瞬間から、あなたに対していっさいの表情を顔に浮かべるのを止めてしまったとしたら。彼(女)はうなずきも微笑みもしない。あるいは、あなた自身のほうが、突然自分の顔から表情を、うなずきや微笑みを剥ぎ取ったとしたら。このときふたりがいる場所ではなにが起こるだろうか?

同上

不穏な空気!笑

で、たぶん言葉がでなくなります。
なに考えてんの?と、相手によっては
聞きそうですが大抵の場合、居心地がわるくて
立ち去りたくなります、きっと。

相手にそんなことをされたら、聞いているのかと不安になったり、失礼だなと不快になったりする。うなずかないでいる人のほうもある落ちつかなさを感じて、うなずきたくてしかたなくなる。

同上

ほんとに!

他者といるこの場所は、それまでのあたりまえに通りすぎる平穏さが一挙に壊れた空間になってしまうだろう。しこれは、考えてみれば、不思議なことだ。たかがうなずきや微笑みひとつだけで、他者といる場所はその様相を一変させてしまう。他者といるということは、そのようなあやふやなものによって成り立っているようだ。

同上

何をしてるか?ではなく、何もしなくなると?
とまったく逆の問いをするということは、
「そもそも」を考えざるを得なくって、
本質的なことが見えてきます。

そして、たかがのうなづきや微笑みが、
いかに尊いかー。相手の存在を認め尊重する。
最近オンライン会議とかで画面オフに
されているときのそれが、まさしくそうです。

そしてそもそもが、他者といるというのは
そういう不確かな、あやふやなものである、
という位置に立てば、いろんな不穏や不安、
逆に居心地の良さ、ということの意味が、
またどれだけ有り難く難しいものか。
それが、普通のことなんだ、と見えてきます。


そして、そのあやふやなものを剥ぎ取ってみると、他者は、私とはひどく距離がある、危険で不気味な存在として立ち現れる。しかしながら、私はこう考える。他者といるということは、そもそもそのようなあやふやなものではないだろうか。あるいは、他者とは、そもそもそのような危険で不気味なものではないだろうか。

同上

そもそも、あやふやだとおもっとけば、
いいんだ。その方が気楽かもしれない。

私たちは、こうした「他者といる技法」をつねに行いつづけている。その技法は、身につけばつくほど、あたりまえになればなるほど、気づかれたりあらためて言葉にされたりすることはない。

同上

だからこそ、無意識に身についた技法。
だれからも、学校でも家庭でも職場でも、
その技法というものを教わらない中で、
身についているものを知る。
相手も、そうやって身につけたものがあるんだ
ということを知るのは大切な気がしてきます。


ではもうひとつ質問なのだが、その表情は、うなずきや微笑みは、あなたの「こころ」と一説しているだろうか?想像してもらいたいのはこういうことだ、もしあなたが、あなたのこころのなかで感じていることをそのまま表す表情を、うなずきや微笑みを、浮かべたとすれば、そこでどんなことが起きるのだろうか?おそらく私の予想では、だれもが、表情とこころは一致することもあるが、一致しないことも多いということを知っている。

同上

一致してないこと、多い!
だから、悩むんです。


私たちは、「こころにもない表情」を浮かべるという技法をー「おとな」であるかぎりすでにしっかりと身につけている。そのような技法によって、他者といるということがはじめて可能になるのだし、他者といっしょにいる場「社会」と呼んでもよいーは、はじめてありふれたものとして成り立ちつづけることができるのだ。

同上

でもそれが、必ずしもわるいことではない、
ということも、これを読んで知りました。


私がここで行いたいことはこういうことだ。私たちがもっている「他者といる技法」を、
それがもたらすばらしさとそれがもたらす苦しみとを、ともにできるだけくまなく描くこと。すばらしさだけを描くことも苦しみだけを描くこともせず、できるだけ公平に描くこと。これが、さいしょに述べた「できるかぎり透明に描く」ということだ。

同上

すばらしさと、苦しみがあることも、
はじめてこうしてみると、知りました。
それを、「透明」にとらえてみることで、
楽になれそうだし、「技法」も大切なんだと。

最近、気になっているアサーティブ、
もきっとそうなのでした。

他者といることを、幸せであれるように。

技法というと固いけれど、
あと60年?長ければある人生を、
その「透明」ないちからも穏やかに
眺められる様に、学んでいきたいです。

今日もお付き合いくださりありがとう
ございました。

きょうよかったこと3つ
・体調をくずしたけど、くずしたことにくよくよしなかった
・初対面の人たちー。との飲み会に参加してみる勇気をだした
・飲み会のまえに、noteかけた!



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