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「いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」


悩み抜いた二週間後、青年は再び哲学者の書斎を訪れた。自由とはなにか。
人は、わたしは、なぜ自由になれないのか。わたしを縛っているものの正体は何なのか。青年に与えられた宿題は、あまりにも重たかった。納得できる答えなど、出ようはずもない。考えれば考えるほど、青年は自らの不自由性に気づかされるのだった。

「嫌われる勇気」
岸見一郎・古賀史建

自由を考えるほど、不自由に気づく。

もしかしたら不自由を考える方が、
自由に気づけるのかもしれない。

縛られてきた、縛られている不自由に
自覚的になれば、その紐をほどけば、
自由になれるのかもしれない。

と、シンプルかもしれない。

哲人 ご両親の意に添って進学先を決めたとき、あなたはご両親に対してどのような感情を抱きましたか?
青年 複雑ですね。恨みがましい気持ちもありましたが、その一方で安堵感があったのも事実でしょう。この学校ならさすがに認めてもらえるだろう、と。

同上

誰かの意に沿うのは、いやなことだけど、
楽なことでもある。
進学先の選択だなんて無限にある。
探す手間も、悩む暇もなく、
決められた道をゆけばいい。

しかも、それ「だけ」で認められる。
褒めてもらえる。そんなに楽なことはない。
褒めてもらえたら嬉しい。
たとえそれが「意に反して」いても、
「褒めてもらえるから」という
モチベーションが上回る。から不思議だ。


いわゆる「承認欲求」ですよ。対人関係の悩みは、まさしくここに集約されます。われわれ人間は、常に他者からの承認を必要としながら生きている。相手が憎らしい「敵」ではないからこそ、その人からの承認がほしいのです!そう、わたしは両親から認めてほしかったのですよ!

同上

両親から、認められたかったなあ。
42歳の今も、そう思っているかもしれない。
それが、きょうの本心。

しかも父か母か、どちらか一方ではなく、
両方から。


哲人 わかりました。いまのお話について、アドラー心理学の大前提をお話ししましょう。アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。
青年    承認欲求を否定する?
哲人 他者から承認される必要などありません。むしろ、承認を求めてはいけない。ここは強くいっておかねばなりません。

同上

承認される必要はない。
だけじゃなくて、
求めてはいけない。

そう言われても、求めちゃう。
求めて生きてきたので。
それが、生きる原動力だったので私。

親から褒められずに育った私は、
中学で塾に通い良い点とれば、
塾の先生から褒められる。
それだけが目的で、勉強がんばりましたもん。

ただ、
おとなになればもちろん褒められることなんて
激減するかむしろ皆無!
求めることをやめた方が、楽に生きられそう。

哲人 適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。ほめてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。そして誰からもほめてもらえなければ、懺感するか、二度とこんなことはするまいと決心する。明らかにおかしな話でしょう。

同上

褒められないから、ふざける。

褒める人がいないから、ふざける。

いきつくのは、褒めてくれないから
ふざけてよい。
とさえなる。

世の中にそれはいっぱいあって、
ほとんどの ふざけ はそうかもしれない。
いきすぎると、誹謗中傷さえ、
褒められないことの反動とさえ思えてくる。

それが誤った
「ライフスタイル」にまでさえなるのだから、
おそろしい。

褒められるために生きていく。
自分がそうだったからよくわかるし、
いまもそれはゼロではないんだろう。
だから、不自由だ。


哲人 あなたは大きな勘違いをしている。いいですか、われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
青年 なんですって?
哲人 あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など、満たす必要はないのです。
青年 い、いや、それはあまりにも身勝手な議論です!自分のことだけを考えて独善的に生きろとおっしゃるのですか?
哲人 ユダヤ数の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。

同上

いったい誰が自分のために生きてくれるのか?

ガツンときます。

いや、まあ、うん、そう、そうなんですよ。
自分しか自分のために生きてくれないですよ。

なんてふてくされたりして。

人のために生きることをやめなくていいけど、
少なくとも、自分のためは自分だけなので、
自分のために生きることファーストだ。

そのうえで、なら良い気がする。
人様ファーストな人は
自分様ファーストでちょうどいい。


哲人 承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。
そして、覚えておいてください。もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。

同上

こうありたい、と願う気持ちには、
もしかしたら、こうあらねばとか、
こうあってほしい、と身近な人が想うことに
沿わせているだけかもしれない。

でもそれもまた、杞憂で、
他者から、沿うことも求められてない!!
なんてびっくりだけど、
そんなもんだよなあ、とも思う。
42にして気づく春。

きっと今からでも遅くない


承認が得られないと苦しい。他者からの承認、ご両親からの承認が得られなければ自信が持てない。はたしてその生は、健全だといえるのでしょうか。
たとえば、「神が見ているから、善行を積む」と考える。しかしそれは「神など存在しないのだから、すべての悪行は許される」というニヒリズムと背中合わせの思想です。

同上

健全じゃないです。

褒められないから ふざけちゃう。

逆を考えると、そうなんですね。
きっと何事もそうで。

褒められるためにがんばる。
がんばるために褒める。

褒められないからがんばらない、となるし
がんばらないから褒めない、ともなる。


われわれは、たとえ神が存在しなかったとしても、たとえ神からの承認が得られなかったとしても、この生を生きていかねばなりません。むしろ神なき世界のニヒリズムを克服するためにこそ、他者からの承認を否定する必要があるのです。

同上

否定するということが
自分を肯定することになるのだから面白い。

否定は肯定になる。

神がいるにしてもいないにしても
自分はいないことにはならないので。

自分を最後に肯定できるのは自分。

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。

今日の本心

とはいえ親から褒められたい。
とはいえ自分で自分を褒めてあげられるように
なりたい。

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