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息のいい文章。


人は、うまい文章を書きたがる。
切れる刀をもちたがる。敵(読者)をなぎ倒す。しかし、その「うまい文章」は、はたして、「いい文章」なのか。

「三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾」
近藤康太郎さん


「うまくなりたい」と思うけど、
「よく書きたい」と思ったことはない。

ただ、どちらも、独り善がりでもある。

「うまいなぁ、この文章」
というのよりも、
「いいなぁ、この文章」
の方が嬉しい。

うまい→テクニックに感嘆
いい →にじみ出る余韻を味わう

自分は後者かな。
そのためのテクニックも必要だけど、
そう考えると

うまい→プロセス
いい →結果

とも見える。

文章が、主体の感情、判断、思想を乗せて走るクロネコヤマトだとすると、そして受け取り印は読者の心が揺れたという現象だとすると、うまい文章に、喜んで受け取り印が押されるわけではないのではないか。
うまい文章などいらない。「いい文章」を受け取りたい。お客さんは、そう、思っているのではないのか?

同上

「主体の感情、判断、思想。」

届け先ではなく、送り主の方が気になった。

書き手が文章に載せたいのは、

テクニカルな感情表現より、
すなおで、わかりやすい感情を。

ロジカルにうまい判断より、
ストーリーのある面白い判断を。

うまい思想ー。借りてきた著名な思想より、
独自の視点からくるオリジナルの思想を。

載せたいし、読みたい。
「読みたいことを、書けばいい。」


ここで、ついに問いが変奏される。

いい文章とはなにか。
文字どおり、人を、いい心持ちにさせる文章。落ち着かせる文章。世の中を、ほんの少しでも住みいいものにする文章。風通しのいい文章。ギラギラしていない、いい離に入っている、切れすぎない、つまりは、徳のある文章。

同上


とげ、
詰まり
重み

のない文章。

「徳のある文章とは?」とまた変奏しそうだが
徳とは、かっこいいもんではなく、
飾らないその人の人となり。と思う。
そういうのって、にじみ出るんですよね。
顔を合わしてなくても。

切れすぎる刀は、人を落ち着かなくさせる。余裕がほしい。ふくらみが、文章にはほしい。
では「ふくらみ」とはなんなのか。
ここでは、「誤誌の種を残むこと」と言っておく。

同上

ふくらみってかわいいですよね。
続きを読む前に、
想像するとしたら、

風船にたとえると、
風船を膨らませるには
空気が必要で、
その息をおもいっきりふいたり。
ふきつかれて、息を大きく吸い込むような、
その一連の呼吸を「させてくれる」ような、
一緒に呼吸を、読者と筆者がしてるような、
「ふくらませる文章」ではないかと。

切れ味の鋭いうまい文章は、
読者を置き去りにする。

勉強にはなる。
快感にはなりづらい。


目指すのはストレスなく読める文章
まるでグライダーのように滑空していく、きめの細かい文章。できれば読者に読んでいることさえ意識させないような、そんな「すべる文章」を書きたいものです。

同上

「読んでいることさえ意識しない」

本、文章ってありますね。
息をするのを忘れるくらい。
(さっきと矛盾しますが)

著者や、物語の主人公に
憑依しているようなとき、
すべってる。

はじめてのエッセイ作品第二稿をおえて、
自分の文章に対して、
校正というものを生まれて初めてしています。

まあ、これが詰まる詰まる。
赤入れだらけの、ふんづまり。

noteと、一冊の本を書くのもまた、
ぜんぜんちがっていて、面白いです。

自分自身に対しても、
まだまだふくらむ余白がある、
ということで、
自分と自分が息し合うような、
書く暮らしをもう少し楽しみます。

今日もお読みいただきありがとうございます

きょうは、兄妹が雲の中を歩いてる
空でした。
青と白。息があいます。



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