見出し画像

「読まされる」文章


「読まされる」

それは決して、
小学校の授業や宿題、
上司から渡される課題図書、において
「読みたくなくても、読まされる」という
人や制度上から強制感のあるものではなくて。

「文章が、次の文章を、私に読ませてくる」

はからずも、読まされる。

引き込まれるように、文字を追わされ、
ページをめくらされる。

それは単に、
「いい文章だから」とか
「うまい文章だから」とか、
「共感」「発見」「違和感」があるからとか
そういう「目に見えるモノ」ではなくて、

改行とか、行間とか、
余白、余韻から、
文章の背景にあるコトやトキ。
物語が、
セットで目に浮かんでくるような、
目に見えないリズム。

「私は、この文章を読んでいます」

ではなく、

「私は読まされてしまいました、この文章に」

そんなワクワクする出会いが、
本にはあるので面白い。
それが、「創作」。


なんて、偉そうなことは、
とてもとても言えません。

きょうは
「書きたいが書けるに変わる創作講座」
の4回目でした。

エッセイの第一稿、第二稿と書いてきて、
きょう「ゲラ」と言われるものにして
くださっていて、ちょっと、いやめっちゃ
感激しました。
ワード原稿でみるのと、全然違うのですね

mae3第一作まであともうひといき。のゲラ


第一稿→第ニ稿 への作品に、
講師の先生から
「すごいレベルでよくなってる」との講評が、
受講生のみなさんに告げられる。

ほんとうに、
プロット〜みなさんのを拝読し続ける、
というその変化を見させていただけるという
貴重な体験、みなさんの凄さを実感。

その一方で、私への講評の第一声は、
「読まされた」
と。

あれ、どういうこと?
と一瞬なったのですが笑。

↑前述のような、高尚なような
ことで仰ったのではない、と思いつつ。

「読みたくなる」
ではなく、「読まされる」という評を
いただいたのは、嬉しかったです。

どういう文章が、
「読みたくなる」ではなく、
「読まされる」のか?というヒントは、
講師の先生から、講義冒頭で仰ったなかに
あったのか、と思ったので、
書き記して終えます。


第一稿から第二稿にかけての
創作過程は「糸口をひっぱっていくようなもの。スポットあいだが抜けてその先がないではなくて、ひっぱっていくとどこまでも出てくるような糸。」に手応えを感じ、楽しまれたことと思います

と。

これは書き手の視点ですが、
読み手の視点でいえば、
「糸を紡いでいくような文章」
思いがけないところで、つながっていく文章。

それが、読まされる文章。


きょうもお読みいただきありがとうございます

写真は、大阪梅田スカイビルです。
今回の創作エッセイの、「ある風景」の
舞台になったところに3ヶ月ぶりに、
再びきました。
当時は、鯉のぼりでした。
いまは七夕飾りがありました。

「また来たくなる場所」は、
「来させる場所」でもあります。

向こうから呼ばれるような。
「来て」っていう強い押しではなく、
自然と、堂々と、静かにそこに
凛々しくたっているところに、
惹きつけられる魅力があります。

読ませる文章、も似ているのかもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?