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感情のコントロールよりも感情にアプローチする。

コロナ自粛の初期、私は、無自覚にストレスを溜め込んでいた。

自分では平気と思ってる。なのに、夜、眠れなかったり、昼間ボーッとして、何もやる気がしなかったり。

そんなとき、「在宅勤務でメンタルを安定させる方法」というオンラインの対談(下園壮太×佐渡島庸平)を見た。この言葉が飛び込んできた、

「不安+自由の制限、この状況に置かれるだけで人は疲れる。」

すとーん! と腑に落ちた。

「おとなの小論分教室」山田ズーニーさん

「疲れ」と言えば私たちは、カラダの疲れ、重労働や過労に目が行きがちだけど、「心の疲れ」も同じくらい大変なものなんだと。何もしてなくても、周りからはダラダラして見えても、「不安+我慢」の状況に置かれるだけで、人間はものすごく疲れるんだと知らされた。私は、ちょっと泣きそうになった、

「疲れていいんだ。疲れるのは自然のことなんだ。」

それまで見ないようにしてきた自分の「疲れや不安」を初めて自分で認めることができた。それだけで、ものすごく落ち着いた。

「感情には居場所が要る。」

同上

「感情の居場所」。

美術館の最後のグッズ売り場も。
映画のエンドロール。

ストンと落ちた。

フィギュアスケートの
「キス&クライ」も、得点結果待ち
というよりは、

主戦場からあえて外れてた場での
選手とコーチの感情の居場所。

サッカーにしろバレーにしろバスケにしろ、
試合がおわれば、一礼する。
敵対心むき出しだった、試合を終え、
感情を置き、握手を交わす。

人に対しては、そんなふうにできるのに、
自分に対しては、自分一人では
なかなか難しい。

仕事という主戦場を去ったあと、
たいてい会社に置き去りにしてくる。
いらだちや、もやもやを残したままだ。

感情をコントロールして乗り切った。
だが、それは我慢だ。

自分の感情にちゃんとアプローチ、
してあげよう。

昔担当していた塾が、自宅の教室でされていて
その自宅には立派な門構えがあり、
潜り抜けると
玄関までおよそ10メートル。

その間の石畳は、心が落ち着いた。

「さあ、この先生に、教室の子どもたちに
会うぞ」というドキドキ。

教室で学ぶ子どもたちにとっては、

「さっきまでの放課後の興奮を置き去りにして
 勉強モードに入る」

感情にアプローチする、
助走のようなものだ。

門から玄関までの道には呼び名があり、
「アプローチ」というんだとか。

そして、そのアプローチには、

「少しカーブをつける」のが鉄則らしい。

たしかに。カーブしてた。
江戸時代のお屋敷もカーブしてる。

神社の参道のようにまっすぐではない
曲がりくねらせたアプローチ。

ストレートなみちのりより、心が落ち着く。


仮に、感情というものを、
家の玄関に置いてみることにする。
そこにどうアプローチするか。

「この家の主人は今、怒っている。」

ということを客観的に自認する。

そして、

菓子折という、
この主人の好みである〇〇を買っていく。
ピンポンを押し、
玄関の戸をあけ、怒りの元を受け止める。
相手の心の叫びを受け止める。

その主人とは、自分だ。

感情を、家という離れた場に
置いて眺めるという
アプローチだけでも、落ち着せられそうだ。

そのアプローチは、ストレートでなくていい。
カーブしよう。



noteは感情の置き場である。

ストレートでなくていい。
感情を置いていく。
感情を逃がしていく。

文字にしながら
自分の感情にアプローチしている。

それは、
コントロールという手段
ーすなわち我慢や押し付けではなくー

やさしくよりそうアプローチ。

我慢しなくていいんだよ、自分。
と、思えたら、落ち着く。

今日もお読みいただきありがとうございます。

写真の花が、下を向いていたので、
下から自撮りでアプローチしてみた。
撮れないはずの景色が、撮れた。

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