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40代の新人です
僕は今、五十一歳、五十代の新人です。
四十代を過ぎ、五十代というおとなの季節を生きているのですが、相変わらず新しい仕事や環境を求めて冒険を始めています。さらに、そこで出会った新しいものが複雑になれば、思い切って整理して、自分に立ち返ったりもしています。つまりいまだに、基本を巡ってくるくると動いているのです。新しいことはまだまだ、できる。
新しいことはまだまだ、できる」
松浦弥太郎
五十代の新人、ってキュートに聞こえます。
四十代になって心機一転、もあれば、
あああ、もう四十代かあ、というのもあり、
思うのは自由だけど、
「代」を節目に「新人になる」っていう
考え方が、キュート、という気がします。
それは決して可愛らしいものではなく、
冬の厳しさ、一寸先は闇のような怖さも
含んでいるけれど、「愛でる」余裕がある。
今日1日の終わり、明日1日の新しい始まりを
思えば、明日には「42歳と◯日の新人」
かもしれない。
歳をとる、経るたびに複雑になるけれど、
だからこそ、「きほん」にたちかえる。
そのためには、自分の基本を、自分を、
もっていないと立ち返られない。
それでも失敗はするから、立ち戻れる場所も必要。そんな僕のまんなかに、常に基本があります。
「きほん」とひらがなで書いてもいいくらいに、実に身近に。決して若いわけではないけれど、老いるのはまだ先。そんなおとなのまんなかを生きるとき、自分のまんなかに基本があると、迷子にならずに冒険ができます。
この本は、そんなおとなのためにあります。
この本は、おとなの「きほん」。僕自身とあなたにとっての、おとなのまんなかの覚書です。
基本→きほん
ひらがなで書くと、グッと身近になります。
42歳、おとなのまんなかです。
「40にして惑わず」と論語にあるけれど、
惑ってばかりだからこそ。
きほんの覚書をもっておく。
論語もいいけど、じぶんの覚書を。
↓以降、巻末の羽田圭介の解説です。
〈僕が好きなのは「新しいもの」です〉
〈基本っていつも新しい〉〈無駄なものがいっさいない、そぎ落とされた最小限のものだけで、すっと立っている。それこそ、基本のありようです〉〈基本とは、あたりまえでありながらも、未知なるものです〉
序盤でなされる「基本」の解釈からして、無難、簡単といった要素とは無縁の、何周もした末にたどり着く「基本」であることに気づかされる。たんなる脱力ではたどり着けず、そこへ至るにはなにやら求道的な姿勢が必要なようだ。
基本は新しい、ということが、新しいです。
基本って、どこか、伝統的な、古めいた、
新鮮味のない感じがしますが、
それを、新しいという松浦さんが、新しい。
基本はあたりまえながら、未知なるもの。
基本って、みんなが知ってるようで、
実は知らなかったり忘れてたり、
ときに「おざなり」にされるようなものだから、
むしろ、新しいんだなあ、とまたハッとします
羽田さんの、
「何周もした末にたどりつく」のが基本という。
スポーツ選手や、音楽家、〇〇道と名のつく
道には、基本が大切、と言われるけれど、
基本→応用→発展、とすすんで、
ぐるっとまわってやっぱり基本、となる、
んですよね。
まさに求道的なもの。
それは、私腹を肥やして、ふくらんでゆく
物欲や物的豊かさではなくて、
洗練された、磨き上げられた、
ほそマッチョのようです。
基本は、簡単ではない。
だから、迷う。
無味なものをそぎ落とすには、無駄ではないもの、つまり本質をつかむ必要がある。
スマートフォンの役割について、〈スマホというのは、退屈だったり、ちょっと現実逃避をしたかったり、なぜかイライラしたときにさわるもの〉と見抜き、時間とお金というのはとても似ていて、人は何に時間とお金を使うのかを考えると、「自分を助けてくれるものに使う」と本質を見抜く松浦さんは、僕がコミュニケーションをするなら人の感情を助けるものにしたいというふうに、自身の行動の目的がかなりはっきりしている。
人は何に時間とお金を使うのか?
↓
現実逃避やイライラ回避、ではなく、
「自分を助けてくれるもの」
目的がはっきりしている、
というのは、
基本がはっきりしている、
ということなんですね。
基本の所作としての、暮らしの中にある、
挨拶、おはしの持ち方、服の着こなし。
などなど。
それは単なる作法ではなくて、
そこに目的がある。
共通しているのは、
他者との関わりにおいて、
「どう見られるか?」という視点と、
「どういう存在でいたいか?」という意思、
そういう、
おとなのまんなかにあるきほん、
なのかなあと思う。
それは、人とちがってていいし。
40代にしてそれがあるのと、ないのと、
というので、
自分が常に新しく楽しめるかどうか、
の差になるんだろうな。
迷わず、新しく。
そして読み進めるうちに、〈基本的に僕は休みをとらず、土日も起きる時間と寝る時間は同じ。(中略)何かしら仕事もします〉〈休みというものが必要なくなるのです〉<二十四時間フルで働いて、たとえ強引にでも、できることや思いつくことを全部やってみた〉〈料理も編集も執筆も一生懸命にやって、自分のギリギリのところからクリエイティブしていく〉へおとなこそ、必死で働く。これを基本とすれば、いつまでも初々しくいられるいうふうに、かなり精力的な仕事人間であることがうかがえる。
基本は、ギリギリ。
なんだか40代になってはじめて
おとろいゆく体力やからだの変化に、
精力的に働くよりも、効率的に、だなんて
どこかで思ってしまっていた自分を
恥ずかしくも思いました。
ギリギリのほうが、ドキドキする。
ただ、ギリギリをゆくには、
おとなのきほん、がないと道を外れる。
じぶんをこわしてしまうことに、なる。
<「この人と会ってよかった、友だちになりたい」と感じる人には共通点があります。/みな、仕事が好きな人たちです)ここまで書かれると、僕が勝手に想定していた「暮しの手帖』や「くらしのきほん」、それに近いメディアの読者像とはかなりかけ離れている気がする。だから、強烈に印象に残った。
イメージとかけ離れている、
というのは、そこに、尖るほどの突き抜けた
魅力があるのと同時に、
自然体すぎて見抜けない領域にあるから、
なんですね。
そしてそれは、人々に印象づけ、
魅力する。
飽きた仕事はやめてなんでも新しく始めればいいわけでもなく〈「続けながら新しくする」というのが、おとなの豊かさ〉という指摘には、今抱えている仕事のうちのいくつかに飽きを感じやめたがっていた自分には、目から鱗が落ちる思いだった。
そしてさいごに、
何でも新しければいいわけでなく。
ときたもんだからびっくりします。
続けながら新しくする。
ためにも、おとなのきほんのまんなかを、ゆく
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます
きょうよかったこと3つ
・反論されても笑って返せた(かわすのではなく)
・ああ、いい感じ、とみていて思える自分がいた
・ちょっと、だいぶ、怒るようなことを、怒るわこれ、と言えた