自由じゃないから自由を選ぼう
自由すぎても買えないんです。
たとえば車、たとえば冷蔵庫。
たとえばおにぎりの具。
選択肢は狭いことのほうが、どこか
自由を享受している気にさえなります。
究極的には梅かシャケか、の2択でさえ
「どちらかを自由に選んだ」と。
選択的夫婦別姓も、
「同姓一択」という「強制」ではなく
「別でもいいけどどうする」と選べるだけで
雲泥の差感がある。
とはいえ、選択肢は、
トヨタもホンダも、外国車も、
ツナマヨも、明太子も、唐揚げ弁当もある。
という自由な幅はもっと広いはずなのに、
「売る側の流通またはマーケティング」に
よって随分と「自由な錯覚」に陥っている。
「選ぶ手前」が省けるのはありがたいこと
だけれども、です。
自由に自分が欲しいものを選ぶ。
というのはお金と時間が湯水のように
あればの話しなのかもしれないけれど、
お金だけの話、物を買う自由という
ことでもない。
出会いがどこかで、だれかに操作されている。
本当は「偶然の出会い」なんてないのかも
しれない。
書店にいけば平積みされているのをみて、
「たまたま見つけた一冊」のつもりが、
書店員さんや出版社の意向、はたまた、
「世間の人気」に左右されて「そこ」に
恣意的に置かれただけかもしれない。
蔵書の多い図書館にしても、そうである。
テレビも新聞も、「公共性」という名の、
「方向性」が忍ばせてある。
「特色」という名に隠れている。
知らず知らずに「方向づけ」されている。
と、そこまで悲観的になることではなく
すべての情報や、選択肢を洗いざらい調べ
尽くすことはほぼ不可能だし、
「欲しいだろうもの、便利だろうもの」
を精魂込めて考え、「リリース」
してくれているものと思えばこれもまた
ありがたいものである。
どことなく違和感があり、反発があることで
「自由と不自由の均衡を保っている」
ようにも思えてくる。
自由の反対側には、
犯罪、病気、混乱、などが潜んでいる。
自由とリスクもまたどこかで、
バランスをとらないと、社会が立ち行かない。
市場も社会もと、広く人と人が生きてゆく中で
自由はいつも二の次になっていかざるを得ない
出会いは、人と人、人と物の間にあるのだけど
自由ばかりともいかない。
ただ、そもそも半径100mの中での出会いが
ほとんどの世界、だとしたら、
「暮らし」と切り離せない世界の中で、
自由というものは制限されているのかも
しれない。
自由がないから自由を求める。
となると、もう、
自由を「編集」する自分であることが、
あらゆる出会いのチャンスをつくるの
かもしれない。
与えられた選択肢の「外」にも
自由がある、と知っておくこと。
時に探してみること。
それと、
あたかも自由に選んでいると思っているものの
中にも、外からの
「ある方向づけがあること」を
知っておくこと。
時に、「方向を自分で変えてみること」
で、人生の編集になるかもしれない。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。
きょうのよかったこと3つ
・仕事のこと、悩みなど考えそうになったけどきょうは考えずにおこうと切り替えられた
・よかったこと3つを5日連続でできた
・自分から挨拶できた