「アイデンティティ」という言葉を
むしろ好んで使ってきました。たしかに、
ピンときてないけど聞こえと馴染みがよくて。
たぶんきっと、このアイデンティティ的なもの
は、どこまでいっても端的に的確に、
あらわす言葉はみつからないんだけれど。
「自己同一性」だなんてもっとこう、
しっくりこないんだけど。
「自己」という、「他」とは分け隔てた「何か」に
自分が反応しているのはたしかだ。
でも、
そこに感じていることを否定したくはない。
それを「伝える」とか「伝わる」ということに
なれば、そういうわけにもいかず、
「言葉を使う」うえでのある、違和感は
忘れずにいたいなと思う。
問題は、「腑に落ちているか」どうか。
たしかに、noteに書いていることというのは、
そこに責任や報酬があるわけではなく、
書きたいことを読みたいことを書いているので
「腑に」落ちている。
でも、「伝わらなければ意味がない」のもたしか
それが、自分がわかっているものでないと
いけないということも、たしか。
でも、「自分がよくわかっていないこと」を、
書き表してみることで、「輪郭が見えてくる」
こともある。
noteはありがたい。
だとすると、「わかってない」ということを
ありのまま書く、というのは、自分で
「わかってる」ことなので、書いていいのかも
しれない。
「アイデンティティの意味はわかりません。
でも」と。
理想は、「アイデンティティとは何か」と
言い切ることだと思えば、たしかに、
なんもいえねえ。となる。
けど、それをわからない、と書くのは、
恥ずかしいことではない。と思うことにすれば
書けるんだ。
いやあ、アイデンティティとはずばり!!
とわかったふりをしないことは、
自分に嘘をつかないことでもある。
悩んで書かないよりは、書くのがいい。
「アイデンティティ、よくわからんけど」と
そのまま書けた。
よくわからんけど、こう思うんだよね、と
そのまま書けた。
素人なので。
かっこよ。
にかかなくていい。
かけなくても恥じることはない。
たしかに、そのことが、伝わる。
という実感は今年一年毎日かいてきて、
いただくスキやコメントからも感じます。
だいたい、背伸びした、
「これイケてる」みたいなときほど伸びません笑
だからこそ、
自分の思いついたこと、身の回りの身近なこと
にこそ、自分がわかっていることだし、
わからないことはわからないという勇気を。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。
きょうの本心。
「アイデンティティ」もわるくない。