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自分を選ぶ人生
これは、僕たちが「夫婦同姓」を当たり前だと思っているからです。「結婚したら夫婦は同じ姓になる」と。なぜか。法律でそう定められていて、社会に暮らすみんながそれに従っているからです。日本では明治時代にあたる1898(明治31)年以来、結婚するときに夫婦で同じ姓を名乗ることが法律(民法)で義務づけられています。
IT経営者が裁判を起こし、考えたこと』
青野慶久
生まれた時から当たり前でした。
なので今も「当たり前」と思っていました。
法律の力はすごいことと、
法律が人の無意識までつくることと、
それが226年も積み重ねられたものというのも
それが今、社会の風が変わろうとしている瞬間
だということも、すごいことです。
当たり前は、変えられる(かもしれない)。
未来は、変わっていく
(意志があっても、きっとなくとも)
夫となる人か妻となる人の姓、どちらかを選ぶ。選ばなかったほうの姓は、いわば捨てることになるわけです。
法律上は、男女どちらの姓を選んでも構わないことになっています。平等です。しかし現実は、男性側の姓を名乗るカップルが96パーセント。男性のタナカさんと女性のコジマさんが結婚したら、妻はコジマさんであることをやめ、タナカ姓を名乗る。
これがいまの日本における、“スタンダード”な結婚のかたちと言えるでしょう
「捨てる」ことは、気づきにくい。
自分が男性だから、というのと、
4%という現状とから。
226年間「捨てられている」当たり前。
選んでいいけど、選ばない。
選ぶ権利はあるし義務もない。
いや、選べない。
これは姓だけではなくて、
学校選び、仕事選び、
就職後の選び直し、
学生の部活、だってどこかこう、
選んでいるようで、
「選ばざるを得ない」
「あっちを選んではいけない」空気がある。
本当の当たり前は、どっちなんだろう?
僕は決して、これまでどおり「同じ姓になりたい」という夫婦の邪魔をしたいわけではありません。ただ、「それぞれの姓のまま結婚したい」という選択肢をひとつ与えてくれればいいだけの話です。結婚時、夫婦で同じ姓を名乗るかどうか、自分たちで選べることができればいい。
それが、「選択的」という言葉が指す意味なのです。
なくすのではなく、ふやす。
これは姓だけではなく、
自分自身に対しても。
嫌な自分をなくさなくていい。
もったまま、他の自分をふやす。
そうして「選択的」にしていくだけなんだ。
ひとつだけだと限定的、強制的だけど、
もうひとつふやすだけ。
another sky
僕たちがこの社会で生きていく上で、選択肢が増えることは、おおむねよいことだと思います。一人ひとりが自分の希望に合わせて選べるようになれば、より自分らしく生きられるからです。結婚するときに、姓を変えたい人は変えればいいし、変えたくない人は変えなくていい。日本国民の幸福度は間違いなく上がるでしょう。
5年くらいで当たり前に激変した、
働き方改革は、「選択的」職場、時間。
だった。
選べれば選べるほど、幸福度が上がる、
と言い切れるかはわかりませんが、
これは姓のことではなくて、
自分の働き方、考え方、生き方、
暮らし方、学び方の選択の幅が広くって、
「これを自分が選んだんだ」と、
思えるだけで、違うものになる。
景色が変わる。
どこまでいっても、「人の敷いたレール」
だったとしても、「選ぶ自覚」は生きてる感が
ある。
振り返ってみれば、僕たちの先人は、いままでにさまざまな場面で選択肢を増やし
てきました。たとえば、職業を選択する自由、住むところを選択する自由、今日何を食べるのか、明日どんな服を着るのか。日本で暮らす僕たちは、たくさんの選択肢を持っていることに気づかされます。
ほんとう、そうなんですよね。
ふだんは気づかないけれど。
選挙権、だってそう。
あるのが当たり前。
あってよい当たり前と
無い方がよい当たり前とある。
いまは選べないけれど、
266年後に、選べたらいいことってなんだろう
「自分」
かな。今より自分を選びやすい、世の中。
その点、世界はまだまだ発展途上です。いま、世界では「格差」や「分断」が大きな問題になっています。一部の人たちだけが選択肢を増やし続けている一方で、残りの人たちの選択肢が減っていることがこれらの問題の背景にあります。
分断されると、分けるので一見選べそう。
だけど、分けて、「断つ」必要はないのに。
断つことで、選ぶ幅がせばまる。
これは世界の貧困のことでもあるけれど、
自分自身を、分断してないか?と、問う。
もし、誰もが多くの選択肢を持てる社会をつくれたとしても、その社会はじつはそんなに甘くはありません。選択肢があっても、選ぶためには知識や勇気が必要で、そこに責任を伴うからです。
選びやすくしない、力も働く。
選べない方が、楽なこともある。
スーパーの買い物がまさにそうで、
水の種類は何種類もあって、迷う。
迷いたくないし,失敗したくないし、
間違った責任を負いたくない。
からの脱却は険しい。
自分を選ぶためにも、知識と勇気が、
ひとつでもあればいい。ふやせばいい。
選択的夫婦別姓制度が実現されれば、やはり選ぶ必要がでてきます。制度がなければとくに深く考えずに男性側の姓に改姓していた女性も、制度があることを知れば考えるきっかけになるでしょう。
これはある意味、とても厳しい社会です。
「自分はどのように生きたいのだろうか?」「何が自分の幸せなんだろうか?」
選べると、いやおうなく、問われます。
選べないと、問われません。
これも、どっちか?ではなくて、
選べることを選べればいいはず。
とはいえ人間は弱い生き物です。誰もがすぐ上手に選べるようになるとは、とても思えません。
だからこそ、互いに情報交換をして選ぶことを助け合ったり、間違えて選んでしまったときには選び直せる道をつくったり、この難しい「選ぶ」という行動を支援する社会の基盤が求められるでしょう。
選び直せる、ほうが、選べること以上に
大切なことのようにおもいます。
自分を、選び直せるように。
今日もお付き合いくださりありがとう
ございます。
きょうよかったこと3つ
・人間関係はむつかしいけど、逃げずにおこうと思ったこと
・もう年末だ。いやまだ30日以上ある、とおもえたこと。さてなにしよう。
・バスで帰ろうか迷ったけど、歩いて帰ったこと。