夢オチ、それから物語について
夢オチが嫌いではない。特別好きでもないが、そういう終わり方をする物語を読んだり観たりしても不快には感じない。そして必ずある人物を思い出す。
物語の中で「うわー、もうどうにもならないよ。それに整合性とれてなくない?何だか変じゃない?」と感じた後に登場人物がガバッと起きてなんだ夢かぁ~で終わる。
そのこと自体が1つの体験として衝撃を受ける仕組みになっているので、上手く作れば良い効果が出ると思う。だが、一般的には結構重大なタブーとなっている。
ご都合主義的になんでもアリ、または全部なかった事にしてしまう「真面目に観てた時間返せ」と言いたくなるような夢オチは、タイムパフォーマンス重視の時代にはいよいよ受け入れられないとは思う。特に連続ドラマや映画ではそうだろう。
せっかくお金と時間を使ったのだから、スカッと納得できる気分良い終わりを体験したいと思うのが普通かもしれない。
ただ、物語は基本的にウソで作られている。それは大前提で、みんなウソをウソとわかったうえで楽しんで観ているはずだ。全部ウソであっても最後だけは夢でしたでは納得できないというのは、結末の付け方に特に重要な意味があるという事なのだろうか。最低限つじつまを合わせる努力をしろという感じか。僕はその辺がよくわからない。
僕は作中の努力がすべて水の泡になるバッドエンドでも楽しめるし、デウス・エクス・マキナが突然現れ謎パワーですべてを解決するのも全然ありだ。何のオチもないままボヤーッと終わるような物語も嫌いではない。そういえば僕が一番好きな終わり方をする物語は「はてしない物語」だ。終わらないという終わり。
高校の校長だった祖父に、
「くだらない本ばかり読むんじゃない。小説なんてものはどれも全部ウソっぱちだから何の価値もない。現実の経験をしろ」
と軽い説教をされたことがある。高校生だった僕は頭に血が上って、反論しようかと一瞬思った。けれども生涯を理系教育に尽くし、教師から校長にまでなった老人にフィクションの良さを説いても、お互い得るものは何も無いだろうと思いなおしてやめておいた。
祖父の事は大好きだったが、その説教だけは受け入れずにその後も物語を読み続けた。
僕は今でも「ウソだから読む価値がない」ということには賛成しない。逆に、「ウソで作られている物語」の価値についてはいくらでも言う事ができる。
他人の価値観を知ることができ、別人の人生を短時間に疑似体験できる。想像力を高め、知らなかった社会問題や主張に触れることができる。知識を増やし、好奇心や創造力も刺激する。あらゆる物語はあらゆるライフワークの入り口となりえる魔法の書だ。
なによりも、脳による想像力は最強のVR(仮想現実)なのに。使わないのはもったいない。
ウソだから物語に価値はないと断じた祖父は、その後しばらくして病で亡くなった。物語によって他人の人生を体験してこなかった彼は、死の疑似体験もしてきておらず、その本人の死によってのみ死を体験した。夢オチもスカッとしたオチも受け付けないまま逝った。徹頭徹尾、自分の現実だけを味わい尽くして逝った。それが良かったのか悪かったのかは誰にもわからない。
現実の体験しか是としない生き方もあり、仮想であっても多くを体験したい生き方もある。それだけ。
しかしこの祖父の話の極めつけは、彼の病がアルツハイマーだった事だ。
現実の体験のみを是とした祖父がその最期の日々に見ていたのは、最強VRマシーンの脳が作り出した整合性の欠片もない幻想物語だった。
きつい皮肉が効いたオチでちょっと怖いくらいだ。そして僕だって体験しているこの現実が脳VR幻想物語じゃないとは言い切れない。いつか目覚める夢かもしれない。
そういうわけで僕が夢オチから連想するのは世界の入れ子構造だ。起きても起きても夢から覚めない夢、ループ、さらに胡蝶の夢やシミュレーション仮説まで。そして、現実だけを見ているつもりで物語を観ながら逝った祖父のことを思い出す。
それはほろ苦く、しかし不快ではない。
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