《puddles》軈て晴やかな
私がライブに行くときは、雨が多い。
もちろん、空気がどんよりする。しかし、音楽にのめりこむギルティな気分から掩耳盗鐘させてくれる薬でもある。
先日、シンガーソングライター・TOMOOのライブに参戦した。タイトルは《puddles》。水たまりという意味だ。彼女はMCの時間になるたび、そのタイトルに込めた意味を私たちに語っていた。ーー
水たまりとは鏡のようなものだ。雨空も、その後の晴れた空も写し取り、光を反射させる。みんながその上を飛び越したり、バシャバシャ足を突っ込んだり、それぞれのよろしいように楽しむ。このライブを6,7月のみんなの水たまりのような、各々の楽しみ方を溜め込んだ空間にしたい。ーーと。
それを表すようにステージ上には反射板が四方に配置され、ステージや客側の様子を淡く写していた。彼女の、華やかで、品のいい、等身大の音楽に、その飾らない反射演出がとてもマッチしていた。
私たちの世の中は、境目のない終わりに満ちている。昼休みに食べきれなかった弁当は、いつしか晩御飯と呼ばれている。さっきまでやっていたはずのバラエティが、いつの間にか報道番組に変わっている。夜を徹すると、迎えられるのは朝である。
水たまりもいつのまにか生まれ、知らぬ間に消える存在である。「水たまりがなくなる瞬間」をこの世の誰もみたことはない。見ていたとしても、本人は見たと思っていない。それはただの雨の残骸であって、いつかの空に消えていく。
私たちの心はいつも欲しくもないストレスを抱えている。頼んでいない優しさをもらって、勝手に浮かれて勝手に落ち込む。この心の浮沈みの生来厄介なことは、境目がなく現れ消えるところだ。スケジューリングとタイムパフォーマンスに縛り上げられた近代資本主義の身体のなかを、心だけがやたらに動き回るのだから、違和感を感じるほかない。
しかし、思い起こしたい。そんな毎日の中にあってこそ、小さな喜びは、一層大きく感ぜられる。私たちは、娯楽にまやかされた今にあって、喜びに慣れすぎた。水たまりがどこまでも深く続いていると幻覚する中毒に罹っている。いつか乾く水たまりを「それもいいわ」と笑い飛ばせない狭小。それこそたちが悪い。
《puddle》には、「混乱させる」という意味もある。確かに、濁った水が溜まれば、淀んで気持ちがどうにもならなくなるだろう。けど、その後には、必ずその淀みは乾き、忘れられる。雨の日に知った音楽を、《puddled》したあとに聴けば、軈て心は晴やかになるかもしれない。