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七夕島奇譚

幼い頃は、七夕に飾られている笹や短冊に、ノスタルジックな魅力を感じていた。けれど、今やその幻想性を肌で感じることは失くなった。

秘めたる「願い」を書き記して天に託す。子どもだからこそ、恥じらいなく無垢な願いを晒せるという面もあるかもしれない。

そう思うと、今の自分の願いらしきものが、咄嗟に思い浮かばないことに気付かされた。
いや、「思い浮かばない」と言っている時点で、普段から気に留めてないようだ。

何を願い、自分が今いるのだろう。


いろんな施設に置かれている七夕笹を見ると、みんなの願いが、筆圧の濃く大きな字で書かれていた。

「はやく大人になりますように」
「家族で旅行にいけますように」
「○○ちゃんとたくさん話せますように」

下心のない想いが、せせらぎのように頭の大河にそそがれる感じだ。
一方、大学生のそれとなると、大喜利か、いい格好しいか、匿名希望の本気の願いのどれかだ。
それも面白いが、比べると変わってしまったなと感じてしまう。

いや、そういえば、自分の願いごとはどんなだっただろうか。そういえば覚えていない。
小学校のときの自分の七夕について、母と談義をしてみると、いろいろとエピソードがあった。
ある学年時の七夕。私はこう綴ったそうだ。

「お父さんとお母さんと、ずっと一緒にいられますように」

満点のおねがいだ。先生も保護者陣もその短冊を見て、心底うっとりしていたようだ。そして、そのときの担任(ご婦人)が一言。

「良い子ですねぇー
けどそういう子ほど、早く離れるんですよねぇー」

母はあまりの現実の突きつけように、シュールな笑いを感じ取ったようだ。私も10数年越しにその面白さにけらけら笑った。


ジョルジョ・デ・キリコという画家を知っているだろうか。
彼は「形而上絵画」という新たな絵画形態を創始した美術史上の重要人物だ。
私は彼の作品の功績の核は「無意味という意味」を私たちに投げかけたことだと思っている。
何の意味もない、何の企みもないことが、意味を生み出す。その気づきを世界に与えた功績だ。

七夕の願いごとは、何にへつらうでもなく書けばよい。何の意味もないような、くだらない願いごとで良い。意味というものは後からついてくるのだ。

一年に一度、自分の願いを考えることで、じゃあこの一年何しようかと踏み出す力を授けてくれる。
幼い頃感じていた七夕への郷愁は、続いていく人生の道程にあって、いつでも青年の走り出す瞬間を思い出させてくれるところにあったのかもしれない。

自分の今の願いは何だろうか。
考えた末、たどり着いた。

「来年、願いごとが思いつきますように」

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