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夜のない街と夜だけの街

「夜がない街」というと、皆さんはどこが思い浮かぶだろう。
私にとって、その代表格は「心斎橋」の風景だ。

ある夜、友達と一緒になんばまで車を出し、アメ村の三角公園でたこ焼きを食べたときも、およそ静まり返ったとは言えない様相だった。
その異世界感からか、私は意識せずに塩マヨネーズ味という食べたことないテイストに挑戦してしまっていた。もちろんおいしかった。

ライブ終わりに呑んだとしても、外を出れば、時間の流れを感じないビビットなネオンの光が外壁に纏わりついている。
「焼き鳥」「ビールと肉」「なんでもある!」
欲を隠さない看板の数々から目を下ろせば、道には危ない人だかりもちらほらとある。
夜の片隅で煌々と輝く街が、虚栄の残像のように思えて、私は好きだ。一番ではないが。

心斎橋は恒星なのかもしれない。


では、「夜だけの街」というのもあるだろう。
私にとってのそれは、兵庫のシベリア・三田だ。

三田の夜は永い。

駅前の店並びも早々にシャッターを下ろし、マドラーを立てたような細長い街灯が、赤外線カメラほどの淡い視界を与えてくれている。
痩せ細った木々は、たとえ空が白んでも英気を養えないのではないかと思えるような佇まいに感じられるのだ。
いくつかの店は開いているが、それは活気という類のものではなく、それぞれが独立国のように互いを牽制しあっているようだった。

横山の方に行けば、もうそこに灯りはない。
あるのは、ひたむきなそれぞれの暮らしの影だ。
干渉しようのない空間に、ひとり切断されているような感覚がする。

それもまた、孤独を癒やす術に枷をはめられたものにとって、大切なときだ。
三田の夜は月の裏側のようだ。


夜とは人が生きているなかで唯一、意識と無意識の間を超えた「断絶」を経験する時だ。

いってきます/ただいま
こんにちは/さようなら
よろしくお願いします/ありがとうございました

大概の物事は始まって終わる掛け声がある。タイミングがある。それはある程度予期できる。
けれど、夜との対峙はいつも不確実だ。

夜のない街にいる人々は、総じて心にしこりがある。だから、夜という空白をなかったことにしようとするのかもしれない。
朝になって、今の自分と断絶されないように。


人であるならば、すべからく夜を超える。
そして、明日をかたどる陽光が、私たちの今までを洗い流し、本日の一歩目を指南する。
このループの中で操りつられ、軽微なバグを修正された「ネオ自分」が毎日誕生する。

夜のない街では、そんな修正をしないでバグを楽しんでいようとするし、夜だけの街では、大人しく自省する。

夜のない街と夜だけの街を往来しながら、私は「わたし」の行き先を決めていくのだろう。

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