寳山寺へ参詣した話。

バイクに乗って奈良県は生駒市にある寳山寺にお参りしてきました。
寳山寺のある生駒山は、古くから霊場として知られています。
今風に言えばスピリチュアルな場所、パワースポットといったところでしょうか。
かの役行者が鬼退治をした、という伝説も残っているようです。
ちなみに、「鬼退治」というのは、鬼を殺すことではありません。
この話をしはじめると長くなるので、ひとまず措きますが。


さて寳山寺です。
寳山寺は、空海さまにもゆかりがあると書かれておりましたが、どうやら江戸時代に出られた湛海律師を中興の祖とする寺院のようです。
真言律宗のお寺さまです。
寳山寺の目玉は、なんといっても現世利益です。
「大聖歓喜天」と書かれておりましたが、個人的に馴染みのある呼び方は「歓喜自在天」です。
すこし調べてみたところ、象頭人身の神さまのようです。
あ、「天」というのは、仏教が広まっていくなかで、他の宗教で信じられていた神々を取りこんでいくのですが、そういった神々を「天」とお呼びします。
「天」とは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)に含まれますから、仏教的に言えば迷いの存在です。
他の宗教で信じられている神々ですが、仏教の立場から言えば、ぼくよりすぐれた境界であるものの、同じように我欲からの自由を達成できていない者として受けとめられているのですね。

閑話休題。
「象頭人身」と言えば、インドのある神さまが思い浮かびませんか?
そう、ガネーシャです。
もとは障害を司る神であったようですが、後には転じて障害を取り除いて財福をもたらす神となったようです。
まったく逆の意味に転じているのは、なかなか興味深い現象ですね。
寳山寺は、この「大聖歓喜天」=「歓喜自在天」のご利益を謳っておられるお寺さまです。
お参りすれば商売繁盛しまっせ、といったところでしょうか。

「不思議だなあ」とお思いになりませんでしょうか?
仏教と言えば、我欲を制御し、安らかな境地を達成するための教えのはずです。
「商売繁盛」を願うのは、我欲を満足させる方向性を持っているように感じませんか?
このあたり、教義的にはどのように受けとめられているのでしょうか?
こういった、神々をお祀りして現世利益を謳うお寺さまは、密教系の寺院であることが多いように感じています。
日本の密教には大きく分けて台密(天「台」宗の「密」教)と、東密(京都にある「東」寺を本山とする、真言宗系の「密」教)があります。
そのどちらでも、歓喜自在天は、大日如来がすがたを変えてお出ましくださったものであるとお考えのようです。
いわゆる本地垂迹説ですね。
どうしても欲望を抑えられない者のために、ひとまずその欲望を叶えてあげることで心を鎮静化させ、しかるのちに、仏教本来の教えへと心を向かわせるのだ。
このようなかたちで、我欲を満足させるような現世利益を仏教教義内に位置づけておられるようです。

これに関して、思い出す話があります。
かつてある先生からお聞きした話です。
その先生は、現世利益を説くご宗旨のお坊さんに、次のようなことをお尋ねになったそうです。
「我欲を肯定する現世利益の教えと、我欲を否定する仏教の教えの関係性をどのように捉えていらっしゃいますか?」と。
するとそのお坊さんは、次のように答えられたそうです。
「わたしはお参りに来る方を、患者さんと信者さんに分けているんです」
つまりこういうことです。
神仏に願いごとを叶えてもらうためにお参りをする方は必ず二つに分かれる。
願いごとが叶った場合と、叶わなかった場合。
叶わなかった場合が問題となる。
これも二つに分かれる。
一方は、願いごとが叶わなかったのだから、神も仏もいないのだと思うひと。
他方は、願いごとが叶わなかったのは願い方が悪かったのではないか、とわが身を振り返って反省するひと。
前者を患者さん、後者を信者さんと呼んでいます、とおっしゃったそうです。
先の歓喜自在天を大日如来の権現とみる見方を踏まえると、なるほど筋は通っていると頷ける気がします。

さて寳山寺ですが、「大聖歓喜天」だけではなく、ほかの仏さまも祀ってありました。
安易な目先のご利益を求めるのをやめ、真面目に仏道を求め、まことの利益を志すようになったひとに向けてのものと解釈しました。
特に多く祀られているように感じたのが、弥勒菩薩です。
磨崖仏(切り立った崖に刻まれた仏像のこと)として彫られた弥勒菩薩像が特に印象的でした。

生駒の山腹、しかもこんなに険しい崖に磨崖仏をつくったお方は、どんなお方だったのでしょう。
真摯に仏道を求めて、歩まれたおすがたに想像が膨らみます。
こんなものも見つけました。

漢文は「肉身に三昧を証して、慈氏の下生を待つ」と訓読できます。
「慈氏」とは、弥勒菩薩のことです。
弥勒菩薩への信仰には、弥勒上生信仰と弥勒下生信仰とがあります。
弥勒菩薩は現在兜率天において修行、もしくは説法をしておられます。
五十六億七千万年後にこの娑婆世界に出現し、弥勒仏となられて説法をされる、と伝承されています。
一刻もはやく弥勒菩薩にお会いするために兜率天への往生を願うのが弥勒上生信仰。
五十六億七千万年後を待ちつつ、弥勒菩薩が一刻もはやく現世に下生してくださることを願うのが弥勒下生信仰です。
この文は、現世において肉身に禅定に入り、弥勒菩薩が下生してくださるのを待っている、というのですから、弥勒下生信仰であると言えるでしょう。
いずれにしても、たいへん真摯な信仰です。
いやはや、こういった仏道を歩んでくださる方がおられる(おられた)というのは尊いことであるなあ、と感じたことでした。

今日はこのあたりで。
おわり。

釋圓眞 拝
南無阿弥陀仏



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