スヤスヤ教について思うこと。ーー法然聖人との対比からーー

「スヤスヤ教」なるものが話題になっているようです。
多くのひとに受け容れられると同時に、宗教というものへの無理解、冷笑が含まれているとして、非難する意見も多く見受けられます。
浄土真宗という特定の宗教を信ずる者の立場から、スヤスヤ教をどのように感じるかをまとめてみたいと思います。
スヤスヤ教と同様に広く受容されつつ多くの非難にさらされた法然聖人の教えとの比較を通して、宗教というものの輪郭を浮き彫りにさせてみようと思います。
まず、スヤスヤ教の概要について述べます。
次に、スヤスヤ教に寄せられている批判を概観します。
さらに、法然聖人の教えを概観します。
最後に、法然聖人の教えとスヤスヤ教を比較しつつ、私見を述べます。

スヤスヤ教の概要

スヤスヤ教とは、X(Twitter)上でみねるば氏(@minerva_owl1)が立ち上げた「生活宗教」のようです。
発端となったポストはこちらです。

詳細はこのポストのツリーをご覧いただければわかると思いますが、ここにも書き置いておきます。
設立目的は「様々な面倒事を「宗教上の理由」で断る口実のためだけの、生活宗教とか立ち上げたい」というもののようです。
教義は「ちゃんと寝ろ」「睡眠時間を増やせ」。
「睡眠が神事なので、睡眠時間を削りそうな行事は「宗教上の理由」で断ることができる」そうです。
また教典として『旧約聖書』の「創世記」をもじって「神は「睡眠あれ」と言われた」云々とされるものが投稿されています。
さらに「出布団記」、「福音書」なども追加される予定だそうです。
これらも『旧約聖書』「出エジプト記」や『新約聖書』「福音書」をもじったものでしょう。
「入信(寝)方法」は、「私は神、睡眠、布団の三位一体を信じます。ぐっすり眠ることを誓います」と信仰告白を行うことらしいです。
これもキリスト教の神・イエス・聖霊の三位一体説をもじったものと思われます。
ほかにも、他者に「信仰を強要したり、金品をせびったり、悪意を持って他者の睡眠時間を奪ったら破門」ともされています。
聖地は「ネルサレム」とされていましたが、のちに変更され、いまは「ネルエライ」だそうです。

さて、以上のように、スヤスヤ教とは、睡眠時間を確保することを至上命題とし、他者への信仰強要や金品をせびることを禁じる宗教です。
概観してわかるように、既存のユダヤ系の諸宗教の教義からさまざまな名称を借用しているジョーク宗教と言えるでしょう。
同様のジョーク宗教である空飛ぶスパゲッティ・モンスター教がインテリジェント・デザイン説へのアンチテーゼであったことを踏まえると、スヤスヤ教は睡眠時間を削ってまでせねばならない面倒事が多い社会のありように対するアンチテーゼ、あるいは他者に信仰を強要したり無闇に信者の財産を搾りとったりする宗教へのアンチテーゼと見ることができるでしょうか。
スヤスヤ教の発端となった上記のポストはX(Twitter)で2024年10月26日現在、4.2万のリポスト、17万のいいねを記録しており、大きな注目を集めていると言ってよいでしょう。
次に、スヤスヤ教に寄せられている批判を見ていきます。

スヤスヤ教への批判

スヤスヤ教は多くの注目を集め、おおむね好意的に受けとめられている一方で、批判も浴びています。
目についた批判をいくつか挙げてみましょう。

このポストでは、スヤスヤ教に、「日本人がナチュラルに持ってる宗教への偏見」が反映されていると言われています。
また、「「我々日本人が宗教をやるとしたらこれだけ穏健なものがつくれるのになあ」みたいな自己陶酔も含まれているとも言われます。
後者は睡眠時間を確保するという身近なことを至上命題とし、他者への信仰強要や金品をせびることを禁じているのを指していると思われます。
しかし前者については、このポストだけではわかりません。
スヤスヤ教のどこに宗教への偏見が反映されているのでしょうか。
このポストを引用して、別の方が次のように言っています。

スヤスヤ教の問題点として、「“宗教上の理由で”って言えばなんでも許されるよね笑」という考え方が思想の土台であることが挙げられています。
それは「鬱って言えばいくらでも休めていいね笑」と同じことだとも言われます。
たしかにスヤスヤ教の設立目的は「様々な面倒事を「宗教上の理由」で断る口実のためだけの、生活宗教とか立ち上げたい」というものでした。
そこには、現代の日本人の多くがなんとなく共有している宗教への偏見が含まれているようにも思われます。
そしてそれが「インターネットの露悪・冷笑・悪意コンテンツである」と指摘されます。
また同様の趣旨と思われますが、次のようなポストもありました。

このお方もスヤスヤ教の生まれたきっかけに不快感を持っておられるようです。
「「宗教」に対する捉え方が軽すぎる」ことを理由に挙げておられます。
裏を返せば、宗教とはもっと重い意味を持つものだ、とお考えなのでしょう。
この点については後に触れることにします。
また次のようなご意見も見かけました。

スヤスヤ教に対しては肯定的に捉えつつも、既存の宗教の言葉をいじり倒すことについて問題提起をしておられます。
聖地名については、上述のとおり、ネルサレムからネルエライに変更されていますが、教典名や三位一体説については既存の宗教の言葉をもじったものを用いつづけています。
またこれらの批判的なご意見に対して、所詮ジョーク宗教なんだから、肩をいからせ、目を三角にする必要などないじゃないか、というご意見もありました。

空飛ぶスパゲッティ・モンスター教のようなジョークなのだから、そんなにマジになるなよ、というご意見のようです。
しかしこれに対して、スパゲッティ・モンスター教とは違う、というご指摘もありました。

ぼくは空飛ぶスパゲッティ・モンスター教についての造詣が深くないので、細かなことはわかりません。
しかしどうやら、スパモン教はスヤスヤ教よりも信仰というものへの理解度が高いとのことです。
なるほど、よくわからん。

というわけで、スヤスヤ教に寄せられている批判について、概観してみました。
どうやら現代日本人の宗教というものへの無理解・偏見・敬意のなさが主な批判の対象になっているようです。
次に、法然聖人の教えについて見てみましょう。
あまり知られていないことかもしれませんが、法然聖人の教えは当時、たいへんな批判にさらされました。
多くの批判を受けているという一点において、スヤスヤ教と比較することが可能なのではないか、と考えてみます。

法然聖人の教え

法然聖人の教えは、「選択本願念仏」という一語に集約することが可能です。
以上。
などと言ってしまっては、なんとも味気ないので、もうすこし詳しく述べます。

法然聖人は浄土宗の開祖、親鸞聖人は浄土真宗の開祖、というふうに、歴史の授業で習ったことがおありだと思います。
実はこのお二人、師弟関係にあります。
法然聖人が師匠で、親鸞聖人が弟子です。
親鸞聖人が自覚的に浄土真宗を開いたという事実はありません。
師である法然聖人の教えが多くの批判を浴び、多くの誤解を生じていることから、「これが法然聖人のおっしゃりたかったことである」という意味で『顕浄土真実教行証文類』(通称『教行信証』)という書物を著されました。
この書物や他のお書き物には、ある意味で師である法然聖人を超えるような内容が含まれていますから、浄土真宗の宗祖と仰がれているのです。
ともあれ、そんな事情もあり、浄土真宗でも法然聖人はことに大切な祖師のお一人です。
ちなみに、「法然聖人」と表記する場合と、「法然上人」と表記する場合がありますが、親鸞聖人は「聖人」を使っておられます。
そのため、ぼくは「法然聖人」と書くことにしています。

閑話休題。
法然聖人の教えは「選択本願念仏」という一語につづまると申し上げました。
ことに問題となるのは、「選択」という言葉です。
順を追って、できるだけ平易に申し上げましょう。
法然聖人は、仏教をバサっと二つに分類されます。
一つは聖道門。
この世界において、聖者となることを目指す教えです。
聖者とは、煩悩をコントロール下におくことに成功した者のことです。
我欲に振りまわされることのない境地です。
二つには浄土門。
この世のいのちを終えた後、浄土において仏となることを目指す教えです。
そこには、「ぼくみたいな愚か者は、煩悩をコントロール下に置くことができません」という自己への深い断念があります。
聖道門と浄土門、二つの道がある。
さあ、お前はどっち選ぶ?というわけです。
法然聖人は浄土宗を開かれたお方ですから、この二つの道のうち、浄土門をオススメされます。
ワシは浄土門を行くぞ、と。
さて浄土門という道を進むについても、さまざまな修行が考えられます。
これについても、法然聖人はバサっと二つに分類されます。
正行と雑行です。
詳しく説明するとややこしくなりそうですので、簡単に申し上げます。
阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願う者が、たとえば薬師如来を拝んで「阿弥陀さまのお浄土に生まれさせてください」と頼んでいたら、ちょっと違和感がありますよね。
阿弥陀仏の浄土に生まれたいなら、阿弥陀仏を拝むべきでしょう。
このように、阿弥陀仏の浄土に対して正当ではない行のことを雑行と呼びます。
逆に、阿弥陀仏に向かって正対している行を正行と呼びます。
さあ、どちらを選びますか?
正行の方が良さそうですね。
さらにさらに、正行を二つに分類されます。
正定業と助業です。
正定業とは、まさしく阿弥陀仏の浄土に生まれることが定まる行業のことです。
助業は、その正定業を生涯にわたって継続させることを助ける行業のことです。
阿弥陀仏を仰ぐについても、さまざまなありようがある、というわけです。
たとえば阿弥陀仏について説かれた経典を読誦すること。
たとえば禅定の境地に入り、阿弥陀仏の浄土のありさまを観察(かんざつ)すること。
たとえば阿弥陀仏を礼拝すること。
たとえば阿弥陀仏をほめたたえ、供養すること。
これらの四つの行業が「助業」です。
対して正定業は、阿弥陀仏の名を称える(となえる)こと。
「なんまんだぶ」と称名念仏(しょうみょうねんぶつ)することです。
正定業であるお念仏を生涯にわたって称えるために、浄土三部経を拝読したり、阿弥陀仏とその浄土のありさまを観察したり、阿弥陀仏を拝んだり、阿弥陀仏をほめたたえて供養したりする助業があるのだ、というわけです。
すこし長い段落になってしまいました。
このあたりのことをスパッとまとめてくださっている文章が、法然聖人の『選択本願念仏集』(『選択集』)にありますので、引用してみましょう。

「それすみやかに生死を離れんと欲(おも)はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛(なげう)ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍(かたわ)らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生ずることを得。仏の本願によるがゆえに」と。

『選択本願念仏集』

この文章のなかに「選」という字が三回出てきますから、これを「三選の文」と呼びならわしています。
上の聖道門/浄土門、正行/雑行、正定業/助業、という三つの分類が意識されていることがわかっていただけるかと思います。

さてここまで、法然聖人における三つの「選び」について説明してまいりました。
この「選び」の主体は誰だと思われますか?
阿弥陀仏の浄土に生まれることを目指す行者が選びの主体だ、と考えはるのではないかと思います。
しかし考えてみてください。
浄土門の底には、みずからが愚か者でしかないという自己への深い断念が流れていると申し上げました。
愚か者の選択はしばしば間違っているのではないでしょうか?
むしろ、選択を間違えるから愚か者なのではないでしょうか?
みずからを愚か者と自覚した者が、みずからの選択にいのちを預けることはできるでしょうか?
先に挙げた「三選の文」も、当面は行者の「選び」だと言わざるを得ません。
しかしその「選び」に先立って、阿弥陀仏という智慧あるお方の「選び」があったのだ、というのが、法然聖人の肚の据わり(すわり)です。
それがあらわれているのが、「三選の文」の最後の、「称名は必ず生ずることを得。仏の本願に依るがゆえに」という文章です。
「仏の本願」とは、阿弥陀仏の四十八願のうち、十八番目に誓われた第十八願のことです。
そこでは、「わたしの本願を信じて念仏して生きる者を必ずわたしの浄土に迎えとり、仏にしてみせる。もしそうできないなら、わたしは仏とならない」と誓われています。
これを法然聖人は、阿弥陀仏が本願で称名念仏という行を浄土往生の行として選び定めてくださっている、と受けとめられたのです。
浄土を建立(こんりゅう)された阿弥陀仏自身が念仏を選び定められた。
そして「もしそうできないなら、わたしは仏とならない」とまで言われた誓願が誓願のままに成就し、現に阿弥陀仏となっておられる。
だから、念仏は「必ず」浄土に生まれることが定まっている行なのだ。
阿弥陀仏がそう選び定めてくださったのだ。
これが法然聖人が明かされた「選択本願念仏」という言葉の意味です。
智慧を完成された阿弥陀仏の「選び」だから、ぼくは安心していのちを預けることができるのですね。

さて、話が横道に逸れそうです。
「選択」という言葉が問題となる、と上に申し上げました。
「選択」の語について、法然聖人は「取捨の義」であるとおっしゃっています。
つまり、「選択」とは、あるものを「選び取る」ことであると同時に、ほかのものを「選び捨てる」ということだ、というわけです。
なんでもないことのように思われます。
しかしこれが大きな問題となります。
というのも、これは、称名念仏以外のすべての修行は、阿弥陀仏によって捨てられた行だ、という意味になるからです。
真面目に仏教というものと向き合い、真面目に修行を積んでおられたお方ほど、大きな不快感と怒りをおぼえたことでしょう。
「ふざけるな」と言いたい気持ちになったことと思います。
法然聖人は多くの批判にさらされますが、あえて一人挙げるならば、明恵上人高弁でしょうか。
たいへん真面目な、とんでもなく頭のいい高僧です。
彼は智慧第一と名高い法然聖人のことを、はじめ尊敬していたそうです。
世間では法然聖人が批判されているが、法然聖人の教えをよくわかっていない門弟が言いふらしていることが批判されているだけであろう、法然聖人ご自身はまともなことを言っておられるのだろう、と思っておられたようです。
しかし法然聖人の『選択本願念仏集』を一読して、「これはとんでもない邪教である」と考えをあらためたと言います。
明恵上人は『摧邪輪』(浄土宗という邪教を正しい仏法の法輪をもってくだく、と訳せましょうか)という書物のなかで、法然聖人を口をきわめて非難しておられます。

真面目に宗教を考えているひとほど、批判にまわる、批判の急先鋒となる。
この一点のみにおいて、法然聖人の教えとスヤスヤ教がなんだか似ているかもなあ、と思いついたわけです。
最後に、スヤスヤ教に対する私見を述べてみたいと思います。

スヤスヤ教に対する私見

先に、法然聖人の教えとスヤスヤ教が似ているかもなあ、と思った、と書きました。
しかし宗教としての両者は、まったく異なる性質を持っている、と考えています。

本題に入る前に、まずは地ならしをしましょう。
みなさんは「宗教」とはなんだと考えていますか?
宗教の定義は宗教学者の数だけある、という冗談を聞いたことがあります。
たしかにアニミズムのような自然崇拝からイスラム教やキリスト教のような厳しい一神教、ヒンドゥー教のような多神教、日常の道徳を説いているように見える儒教、ながい伝統を誇る伝統宗教から比較的新しい新興宗教、人造魔改造宗教である国家神道に至るまで、さまざまな教えが「宗教」と総称されます。
雑多なものを詰め込む大きな風呂敷のようだな、と感じます。
宗教の定義をまずはしなければならないでしょう。
宗教とは、読んで字のごとく「宗(むね)とする教え」のことであると聞いています。
「宗」とは、中心のことです。
日々の日暮らしのなかで、中心にある教えのことを、宗教と呼ぶ、と考えています。
ありていに言えば、生活の依り処、ものごとの判断基準、と言ったところでしょうか。
これ、実はけっこうこわいことです。
信ずるものに判断基準を預けるということですから、自分が悪だと思ったとしても、信ずるものが善だと言えば、善なのです。
むかし地下鉄サリン事件というものがありました。
オウム真理教によって起こされた事件で、社会問題化しましたね。
オウム真理教では、麻原彰晃が信仰の対象だったわけでしょう。
実行に移したひとたちも、「これは悪いことなんじゃないか」と一度は考えたと思います。
しかし自分の判断よりも優先するものが彼らにはあった。
麻原彰晃というお方が判断基準になっていたのでしょう。
だから宗教は危険なんだ、と思われるかもしれません。
その通りです。
宗教は危険物になり得ます。
薬を適量摂取しなければ毒になり得るように、宗教は薬になることだって、毒になることだってあります。
だからこそ、宗教というものに向き合うときには慎重であるべきだと思います。

いま、「無宗教」を自称している方は安心したのではないですか?
やっぱり宗教とは距離を置こう、宗教などという胡乱なものとは関わらないでいよう、と思ったのではないでしょうか。
実は「宗教とは宗とする教えのことである」と定義した場合、厳密な意味で「無宗教」のひとはほとんど存在しないことになります。
というのも、判断の依り処を持たずに生活していくことは、ほぼ不可能なことですから。
多くのひとが、なんらかの判断基準を持って生きているはずです。
たいていの場合、その判断基準は、世間の常識と自分の判断をかけ合わせたものなのではないですか?
つまり、世間の常識に照らして間違っていないかを確認し、最終判断は自分が下す、というものではないでしょうか?
一見当たり前に思えるかもしれませんが、なかなか危ういところがあるように思います。
たとえばほんの80年前は、八紘一宇が世間の常識でした。
その常識はご存知のとおり、終戦とともにひっくり返りました。
自分の判断だってあやしいものです。
だいたい、「ええひと」「いやなひと」などとぼくたちは簡単に言いますが、自分にとって都合がいいひとを「ええひと」と呼び、都合の悪いひとを「いやなひと」と呼んでいるだけでしょう。
「無宗教」のひとは、ともすれば「自尊教」になってはいないか、と考えたりしております。

さて、スヤスヤ教の話です。
親鸞聖人は宗教を三つに分類しておられます。
真実の宗教、仮の宗教、邪偽の宗教です。
真実の宗教は、ご想像の通りだと思いますが、法然聖人が明かされ、親鸞聖人が受け継がれた教えです。
仮の宗教については、いまは話題にしませんので、措きます。
邪偽の宗教は、我欲を満足させ、助長し、増進させるような教えのことです。
「邪」という文字が使われていますが、これは「邪悪」という意味ではなく、「邪曲」の意味でしょう。
目的に対してねじ曲がっている、ということです。
安らかでしあわせである状態、という目的に対して、ねじ曲がっている状態といえばいいでしょうか。
自分の利益を追求するために神仏を使いっ走りにするような宗教がありますでしょう。
あまり言うとカドが立ちますから言いませんが、学業成就、病気平癒、安産祈願、などなどを謳う宗教がたくさんあります。
神仏にお祈りをすると、神仏がそのひとのために駆けずりまわって、受験に合格させたり、病気を治したり、出産を無事に済ませたりしてくれるような、そんな形態の宗教です。
そのとき、中心にいるのは自分です。
自己中心的な欲望を叶えてくれるものにすがる、という意味では、「自尊教」の延長線上にある宗教であるように思います。
ええ悪いはわたしが決める、神仏はわたしがええと思ったもののために駆けずりまわってくれ、といったところでしょうか。

どうもスヤスヤ教は、親鸞聖人がおっしゃるところの邪偽の宗教にあたるように思えます。
どこまで本気かわかりませんが、神が睡眠を至高のものと定めている、とおっしゃっています。
睡眠時間の確保が至上命題、ということは、それ以外のものは枝末のことです。
ものごとの判断基準を定めているという意味で、宗教であるとは言えるでしょう。
しかしそれは、「面倒事を「宗教上の理由で」と言って断りたい」という自己中心的な欲望を叶えるための神です。
中心にいるのは、やはり自分です。

一方で、法然聖人が明かされた浄土の教えは、違いました。
こちらが頼んでもおらんのに、阿弥陀仏は本願をおこされました。
どんな者であっても漏らさないようにと、どんな者でも称えられる念仏を往生の行と選び定めてくださいました。
阿弥陀さまを中心として、その願いを聞いていくのが法然聖人が示された宗教です。
わたしを中心として、その願いを神仏に聞かせていく宗教とはまったく性質が異なると言ってよいでしょう。

スヤスヤ教と法然聖人の教え。
同じく多くの批判を集める、あるいは集めた宗教ですが、その性質はまったく異なっている、という目指していた結論に至りましたので、今日はこのあたりで。
終盤にかけて面倒になり、最後はかなり駆け足でした、失礼しました。

釋圓眞
南無阿弥陀仏

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