阿弥陀仏や浄土が架空の存在であると思っていたかつての自分へ。

現代人が浄土真宗の教えを聞こうとするときに、まず引っかかりをおぼえるのが、「阿弥陀さんやらお浄土やら言うけれど、結局架空の存在よね?」という部分なのではないか、と思います。
これはぼくが過去にそう感じていたから、そのように思っているだけなのかもしれません。
もし浄土真宗にご興味を抱いておられて、ほかにご不審なところがあれば、ぜひコメントなりなんなりで教えてください。
ともあれ、これはぼくにとっては大きな疑問点でした。
父が科学者であったこともあってか、ぼくは小さいころから科学が好きでした。
小学一年生のときの誕生日プレゼントにこども科学百科事典を買ってもらい、むさぼるように読んでいました。
科学的世界観に幼少期から染まっていたぼくにとって、「西方に阿弥陀仏がおられて、お浄土がある」と言われても、どこかピンとこないものがあったのです。
西方に阿弥陀仏が、お浄土が、などと言われても、「いや、それ、架空の存在ですよね?」とツッコミたくなるのが、ぼくでした。
なにか超常的な存在、目に見えない存在がおられて、そのお方に救われていくのだ、などということは、荒唐無稽な話に思えていたのです。
最初にことわっておきますが、阿弥陀仏がいるか、いないか。浄土があるか、ないか、というのは、実は芯を食った問いではありません。
ただ、理屈で答えられないわけではないことを知っておいてほしいと思い、この記事を書きます。
もちろん、この理屈がわからなければ浄土真宗の教えを信ずることができないなんてことは決してありません。
ふーん、そんな見方もあるんやなー、程度の話として読んでみてください。
また、仏教はあまりにも広大で、底が深いです。
専門外のことも書きます。
あくまでも、ぼくはこう聞いております、という立場で書きます。
ツッコミどころがあれば、ツッコんでください。

仏教的なものの見方

仏教は感受性の宗教である、と聞いております。
どういうことか。
「ひとは事実の世界ではなく、意味の世界を生きている」というのを世界観の基軸にするということだと考えています。
余計に混乱させてしまったかもしれません。
説明します。
科学的世界観は事実の世界観である、ということが言えるだろうと思います。
つまり、科学的な視点や方法論は現実の事実に基づいています。
科学的世界観は、観察や実験、論理的な推論に基づいて、事実を積み重ね、解釈し、現実を理解しようとするものです。
科学的な方法論は主観的な信念や価値観ではなく、客観的に確認できる事実に依存しています。
すなわち、科学的な見方は個人の好みや信念に左右されず、誰もが共通に確認できる「事実」に基づくものであるということです。
これは妥当なものの見方であると考えられると思います。
とても大切な視点です。

しかし、ぼくたちが日々のいのちを生きているとき、そこに立ちあらわれているのは「意味の世界」なのではないでしょうか。
たとえば「親のなみだ」。
親のなみだを見て、「これの主成分はH2Oであり、NaClが混ざっており……」などと考えるひとはあまりいないでしょう。
親との関係性にもよりますが、なにか特別な意味をそこに見出すはずです。
あるいは「結婚指輪」。
左手の薬指に指輪をしているひとを見て、「左上肢の第四指に金属で形成された輪をはめている」とは思わないでしょう。
「結婚してはるんやな」と考えるはずです。
むかしぼくの両親がつくばに住んでいた時期があります。
親元に帰っているとき、近所を散歩していると、公園の一角に縄が張ってありました。
そこには研究所名とともに「希少な植物があるため、育てています」という貼り紙がしてありました。
へー、と思い、覗き込んでみましたが、ぼくの目には雑草しか生えていないように映りました。
ぼくには植物に関する素養がまったくありませんからわかりませんでしたが、見るひとが見れば、「これはたいへん貴重なものである」とわかるのでしょう。
ひとはおなじ世界を生きていながら、ちがう世界を見ているのではないでしょうか。
ひとは事実の世界ではなく、意味の世界を生きているのではないでしょうか。
その意味づけは、生まれ、育ち、経験、知識、信条、属している文化、宗教、年齢など、さまざまな要素によって異なるでしょう。
つづめれば、経験によって、世界の立ち現れ方が異なると言えると思います。

さて、ここまでが、仏教的な世界観の基礎です。
これから、仏教の話をします。
「自業自得」という言葉を聞いたことがあると思います。
これは実は、仏教の言葉です。
みずからの行いは、みずからの身に返ってくる、という意味です。
これを詳しく言えば、「善因楽果・悪因苦果」です。
ここで注意したいのは、「善因善果・悪因悪果」ではないということです。
「いいことしたらいいことあるよ、悪いことしたらいやなことあるよ」ではないのです。
楽果とは、幸福な果報。苦果とは、不幸な果報。
果報とは、感受性と考えるとわかりやすいと思っています。
先に「仏教は感受性の宗教である」と申し上げました。
つまり、善を行えば感受性が育ち、幸福を感受できるようになる。
逆に悪を行えば感受性が劣化し、不幸を感受してしまう。
幸福な事実、不幸な事実というものがあるのではないのです。
その状況を幸福と感受できるか、不幸と感受することしかできないか、という感受性の違いがあるだけなのです。
だれもが羨むような状況に置かれながらも、不幸なひとはいるでしょう。
その逆もしかり、です。
「過去の事実は変えられない。しかし、過去の意味は変えることができる」
ぼくを何度もよみがえらせてくれた、梯實圓和上のお言葉です。
後悔と悔恨の念に苛まれ、何度も泥に塗れてきました。
しかしそのたびに、「あんなことをやってしまったけれども、そこに尊い意味を見出すことができないか。いま、こんな状況だけれども、ここに豊かな意味があるのかもしれない」と思えば、どこか心の視野が開かれるような、そんな心地がしたものです。

仏教はどんな状況にあっても、それを「有り難いご縁」と受けとめる豊かな感受性を育てる宗教である、と述べてきたつもりです。
そんな豊かな感受性が完成したお方を、仏さまとお呼びします。
そして実は、仏さまがご覧になっている世界のことを、浄土と呼ぶのです。
たとえば、阿弥陀仏の浄土においては「悉皆金色(しっかいこんじき)」であると説かれます。
あらゆるものが金色に輝いている。
悪趣味だと思われるかもしれませんが、これは、世俗において「金」がもっともすぐれた貴金属であることに準じて、阿弥陀仏がご覧になっている世界では、一切のものがそれぞれ、唯一無二の輝きを放っていることを示していると受けとめています。
とある先生は、「阿弥陀さんの浄土では、ゴキブリも金色に輝くんやな」とおっしゃいました。
みんなから嫌われ、邪険に扱われるゴキブリ。
そんなゴキブリのいのちも、阿弥陀仏は決して軽んじることなく、尊いいのちとご覧になっているということでしょう。
「黄金為地」とも説かれます。
地面も黄金に輝いていると言うのです。
ふだん、地面のことを意識していますか?
ぼくはしていません。
毎日毎日踏みつけられて、お礼を言われることもなく、あって当たり前のように思われている地面。
仏さまは地面に対しても、「地面があってくださってよかった。おかげでわたしは暮らしていける」と、そこに豊かな意味を見出しているということでしょう。
お浄土と言っても、なにか特別なものがある場所ではないのです。
地面があり、木々が生え、池があり、建物がたち……。
いまここで、ぼくたちが暮らしている場所も、見るひとが見ればお浄土なのでしょう。

さあ、仏教の基本的なものの見方を紹介してきました。
そのなかで、「浄土」という言葉も登場しました。
浄土といっても、荒唐無稽な世界ではなさそうな気がしてきませんか?
そんな気がしなかったら、ぼくの実力不足です。
次に、浄土真宗で阿弥陀仏とその浄土をどう捉えているのか、という話をします。
といっても、これが難しいのです。
ぼくにはわからん世界のことなのですから。
わからん者がわからんことをわからんひと(?)のために書いても、なにが何やらわけがわからんと思います。
しかしなにがどうわからんのか、ということならすこし書けるかと思いますので、書いてみます。

浄土真宗における阿弥陀仏とその浄土

先にも書いたように、たいへん難しい話です。
あまり専門的になってもいけませんので、できるだけ平易に、ライトな感じで書いていけたら、と思います。

さて本題に入る前に、仏さまの智慧について触れる必要があるかと思います。
仏さまの智慧は、凡夫の知恵とはまったく性質を異にしたものです。
ぼくみたいな凡夫の知恵は、分別(ふんべつ)する知恵です。
ぼくにとって「知る」とは、分けることです。
あれはあれ、これはこれ、と分けることで対象を知ります。
そしてそれぞれに名称をつけることで、整理をします。
学問というのは基本的にそういうものですね。
そもそも言葉というもの自体が、なにかとなにかを分ける役割を果たしています。
最近「解像度が高い」とか「言語化」とかという言いまわしをよく聞きますが、それも、より細かく、より精緻に分けることで、理解をしやすくしているのでしょう。
しかしながら、仏さまの智慧は、分別することのない智慧だと言うのです。
無分別智(むふんべっち)と言います。
これがわからんのです。
わからんので、仏典に書かれていることのぼくなりの受けとめを書きます。
簡潔に言えば、主観と客観を分けることのない智慧のあり方です。
別の言い方をすれば、自他を分けない智慧です。
自分と他者(無生物も含むと思われる)を分けないというのですから、なにが何やらわかりません。
そこでは「知る者/知られるもの」という対立もありません。
「わたしは一切であり、一切はわたしである」
いや、自他を分けないのですから、「わたし」という名前も成立しない、そんな智慧のようです。
「それそのものになってものをみる」
そうお聞きしました。
世界そのものとひとつに融けあうような智慧のあり方。
そこでは言葉も成立しないような智慧のあり方。
そんな智慧を完成されたお方を、仏さまとお呼びします。
そしてその領域を、「一如」とか「真如」とか「法性」とか「法界」などと呼びます。
さて無分別智ですが、ここで終わらないのがスゴいところです。
自他を分けないということは、他の痛みを自の痛みとするということです。
他の苦しみを自の苦しみとするということです。
『仏説無量寿経』という経典には、次のように説かれます。

もろもろの衆生において、視(みそな)わすこと、自己のごとし。

『仏説無量寿経』

「もろもろの衆生」というのは、みなさんそれぞれの「わたし」のことです。
それを「自己」のように受けとめるのが、仏さまの智慧だというのです。
足の小指をタンスにぶつけたとき、とっさに手を足に当てるでしょう。
手は「どうやら足が痛いらしいが、ぼくは手なので足のことは関係ない」(キリッ)などとは言いません。
どちらも「わたし」のことだからです。
仏さまの智慧も同じらしいです。
真実の智慧はかならず慈悲へと展開する、と言われる所以はここにあります。
ぼくの痛み苦しみ悲しみを自分事としてうけとめ、その苦しみを抜き、安穏なる境地へと導こうとするはたらきが、無分別智の必然として出てくるというわけです。
先ほど無分別智の領域では言語も成立しない、と申し上げました。
しかしそのままそこに留まることは、慈悲の精神が許さないのです。
無分別智は慈悲へと展開し、他をさとらしめるために言語化不可能な領域を言語化します。
これを無分別後得智と言います。
この後得智によって言語化不可能な領域を言語化してくださったものが、経典の言葉と聞いています。

従最清浄法界等流。

『摂大乗論』

『摂大乗論』という仏典に示される言葉です。
「最も清浄なる法界より等しく流る」と読みます。
言葉でしか教えを理解できないぼくのために、本来ならば言葉にすることができない領域を言葉にしてくださる。
経典の言葉は、言葉でありながらも、分別の世界から出た言葉とは出どころが違う。
清浄なる法界という世界から等しく流れ出たものだというお示しです。

さて、前置きが長くなりました。
前置きがいつも長くなるのがぼくの欠点です。
わかったようなわからんような話だったと思います。
理解を超える話を理解するということは困難ですから、わからんということだけわかっていただければ、と思います。
とにかく、真如と一枚になった智慧は慈悲へと展開し、言葉化する、という流れだけおさえておくと、この後書く話がわかるかな、と思います。

親鸞聖人は、『一念多念文意』という書物のなかで、次のように示されています。

一実真如と申すは無上大涅槃なり。涅槃すなはち法性なり、法性すなはち如来なり。宝海と申すは、よろづの衆生をきらはず、さはりなくへだてず、みちびきたまふを、大海の水のへだてなきにたとへたまへるなり。この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆえに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆえに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。

『一念多念文意』

なかなか解読が困難なご文であります。
専門的に読むのはここでは控えることにして、大まかなところを説明することにしましょう。
……しかし本当に難しいご文ですね。
浄土真宗における阿弥陀仏とその浄土について、ひとさまにちょっとは説明できるやろ、イケるイケる、などと軽々しく考えてこの記事を書き始めた自分の不明を猛烈に反省しています。
しかしながら、書き始めたのですから、書いてしまいましょう。
本当はこのご文の文脈なども考慮して拝読するべきなのですが、それは省略します。
初出の単語がいくつも登場しますが、それを説明していると日が暮れ、夜が明けると思いますので、これも省略します。
結論だけ述べてしまいましょう。
無分別智の領域を「真如」とか「一如」とかと呼ぶことは先に記したとおりです。
ここで親鸞聖人がおっしゃりたいことは、阿弥陀仏とは、真如の領域から、智慧の必然として慈悲へと展開した結果として出現された仏さまなのだ、ということであろうと受けとめています。
真如が真如自身を開示するべく、阿弥陀仏として出現された、というわけです。
そしてその阿弥陀仏は、「御なをしめして」と言われるように、「名告り(なのり)」としての仏さまです。
多くのお方は「仏さま」というと、なにか人間とおなじようなお姿をしていて、キンキラキンの彩色を施されていて……、という、お仏像を想像されるかと思います。
しかし親鸞聖人が仰がれた阿弥陀仏というのは、実は究極的に言えば、言葉の仏さまなのです。
親鸞聖人がのこしてくださったお書き物の中に、名号本尊というものがあります。
「南無不可思議光仏」、あるいは「尽十方無碍光如来」などとお書きになって、その下に蓮台が描かれています。
蓮台はふつう、仏像の下に置かれるものです。
蓮華のかたちに作った台座のことです。
それを文字の下に置くのは、すこし異様です。
そしてそこには、「愚禿親鸞敬信尊号」と付されています。
親鸞聖人が「敬信(きょうしん)」されたのは、言葉となった仏さまだったのです。
そしてその仏さまは、「尽十方無碍光如来」と言われる仏さまです。
「十方微塵世界にみちみちたまへり」と言われるように、「世界のなかでわたしのいないところはない」と名告る仏さまです。
阿弥陀さまはほんまにおるんか、とかいう疑問がどうでもよくなるスケールの話です。
この話をするときにいつもしている話があります。
普賢大圓和上という昭和の大和上のお話を自分なりにアレンジしたものです。
「春が来た」という童謡があります。

春が来た 春が来た
どこに来た
山に来た 里に来た
野にも来た

「春」を見たことのあるひとはいますか?
「春」そのものを見ることはできないでしょう。
しかし春はたしかに訪れる。
山に新緑が芽吹き、里には桜が咲き誇り、野には草花が息を吹き返す。
そんな様子から、山にも里にも野にも春が到来したことが知られるわけでしょう。
ウグイスが鳴き始めるのも、春です。
「ホーホケキョ」という鳴き声で、春が来たと知らされる。
阿弥陀仏もそうです。
凡夫が阿弥陀仏のすがたを拝見することは、残念ながらできません。
しかしいらっしゃらないところのない仏さまですから、つねに、いま、ここで、響いてくださっています。
その喚び声が聞こえるはずです。
聞こえなかったら「南無阿弥陀仏」と称(とな)えたらいい。
自分の声だけれども、それが阿弥陀仏そのものです。
称えるたびに、ほらそこに阿弥陀さま。
それが言葉の仏さまということの意味です。
阿弥陀さまがおるとかおらんとか、そういう話ではないわけです。
そして本願を信じて「南無阿弥陀仏」と称える者は、必ず浄土に生まれ、阿弥陀さまとおなじ身になるそうです。
この世の縁が尽きたとき、「わたしのいないところはない」と言える身になるということです。

さて以上のように見てきた浄土真宗の阿弥陀仏観ですが、これで終わりではありません。
上で述べたような阿弥陀仏観はたいへんありがたく味わえるものですが、同時にどこか茫漠とした印象を受けるのではないでしょうか。
どちらを向いて拝み、どこを向いて生きていけばいいのか、わからないのではないでしょうか。
そこで用意周到なことに、経典は阿弥陀仏の浄土は西方にあり、このようなすがた、ありさまである、と説いているのです。
だからどちら向いて拝んだらええんですか、と問われたら、「西方におわします阿弥陀さまを拝むのです」と答えたらええのです。
どこ目指して生きているんですか、と問われたら、「西方の阿弥陀さまのお浄土」と答えたらええのです。
さあいよいよスマホのフリック入力に疲れてきました。
最後に浄土の教説の機能について、ぼくの考えを述べて今日のところは締めましょう。
浄土の教説の機能、それはみずからが描き出している世界の穢土性を自覚させることです。
穢土とは、凡夫が描き出している世界のことです。
感受性の話をしました。
凡夫の感受性は仏さまのそれに比べると著しく劣っており、本当は豊かな意味を持っているはずの世界を見誤ってしまっています。
浄土のありさまを読み、聞き、知るにつれて、自分の感受性がいかに乏しいものであるか、否が応でも自覚させられます。
たとえば『阿弥陀経』という経典に説かれる八功徳水という教説。
浄土の水は八つのすぐれた効能があると説かれます。
甘・冷・軟・軽・清浄・不臭・飲時不損喉・飲已不傷腸の八つです。
甘く、冷たく、やわらかく、軽く、清らかで、臭わず、飲む時に喉を痛めず、飲んでお腹を壊さない、というのです。
実は「八」という数字は満数と言って、「無数にある」ことを表しています。
上に挙げた例よりも、多くの功徳があるということです。
ところでこの八功徳水、物質としてはH2Oです。
ぼくたちがふだん飲み、浸かり、あるいは浴びているものと変わりはないものです。
ふだん水を飲むとき、お風呂に浸かるとき、シャワーを浴びるとき、どれだけ「水があってありがたいなあ」と思えていますか?
ぼくの場合はええとこ「冷たくて喉の渇きをいやしてくれるな」とか「身体があったまって気持ちいいなあ」くらいでしょうか。
水ひとつであっても、仏さまはさまざまに「ありがたいなあ、水があってくださってよかった」と感受される、というわけです。
自分の感受性がいかに限定的であるか、どれほど貧しいものであるか、ということを、浄土の教説を通して、知らされていくのです。
そしてすこしずつすこしずつ、ひとによって遅速はあるものの、日常の生活を「ありがたいなあ」と味わい、「当たり前」と思っていることがどれだけ恵まれていることなのか、不思議なご縁のおかげなのか、そんなことに気づかせていただく日々を送らせていただくのであろうと、ポヤポヤ考えているところです。

今日のところはここまで。

釋圓眞 拝
南無阿弥陀仏

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