自分語り。またはぼくは如何にして疑うのを止めて信仰を持つようになったか。そして、懺悔と新たな出発の記。

釋圓眞です。
これは法名と言って、お坊さんとしての名前です。
浄土真宗本願寺派のお坊さんです。

さて、気まぐれにnoteを始めてみました。
以前にも違うアカウントで書いてみたことがあるのですが、長続きせず、ログインすらできなくなりました。
今回の試みも、早々にやめてしまう可能性が高いです。

にもかかわらず、なぜあえてnoteを始めるのか。
それは、論文にするまでもないような妄想、X(Twitter)では書き切れないような思考の切れ端を、どこかに残しておきたいと考えたからです。
なにか思いついたときや、思考が煮詰まったとき、頭のなかを整理するときなどに更新するつもりです。

そうそう、自己紹介をします。
ぼくは1988年3月11日、大阪に生まれました。
のちに東北で大震災が起こった日です。
父は大学で研究者をしていて、母は専業主婦でした。
およそお寺とは縁の遠い家庭でした。

両親は愛情深くありながらも放任主義で、「勉強しなさい」と言われた記憶が一切ありません。
大学受験を終えて家に帰ると、母に「そう言えばあんたどこの大学受けたんやっけ?」と尋ねられて衝撃を受けたこともあります。
しかし生来好奇心が強く、本ばかり読んでいました。
そのためか、勉強は得意でした。
中学生になってからも、試験勉強などは特にせずとも、それなりの成績を取れていました。
高校は、自由な校風に憧れて、茨木高校に入学しました。

高校時代はラグビー部に所属し、ラグビーばかりやっていました。
相変わらず本が好きで、この頃から哲学というものにハマりはじめます。
きっかけは、永井均さんの『これがニーチェだ』を読んだことです。
以来、哲学の入門書めいたものを読み漁りました。
思春期だったからかもしれませんが、「なぜ生きるのか」、「人生には何の意味があるのか」、そんなことばかりを考えていた気がします。

大学受験の季節になり、周囲からかなり遅れて、三年生の冬ごろから受験勉強を始めました。
当時、鷲田清一さんの本を熱心に読んでいたこともあり、「このひとのいる大学に行こう」と決めました。
大阪大学です。
ラグビーばかりに明け暮れて、勉強などほとんどしていなかったぼくにとっては、高すぎる目標でした。
センター試験も散々な結果。
「こりゃどうせ落ちるわ」と半ば諦めつつも、大阪大学のみを受験しました。
親の迷惑もかえりみず、浪人する気マンマンです。
しかし試験中に謎のグルーヴ感が生じ、なぜか合格。
文学部に通うことになります。

高校時代の部活がぼくにとってあまりに過酷だったこともあり、大学では部活動やサークル活動には参加しませんでした。
自然、ぼくの学部時代の交友関係は、ほとんど文学部内で完結することになりました。
この点についてはすこしだけ後悔しています。

卒業論文では、贈与論を扱いました。
贈与は贈与として意識されてしまうと交換になってしまう、無償の贈与は可能なのか、というテーマでした。
バタイユという思想家を主に扱ったのですが、その関係で仏教に関心を持ち始めました。
といっても、当時は浄土真宗には興味がなく、禅宗やテーラワーダ仏教に関心を持っていました。
仏教といえば自己修練、というイメージを持っていたのです。
阿弥陀さんとか浄土とか、おるんかおらんのかわからんもの、あるんかないんかわからんものを信じるなんて、ぼくには無理やなあ、と思っていました。

やがて就活の季節がやってきて、出版社ではたらきたいと思い始めます。
というのも、当時の日本の年間自殺者数は十年ほど連続して三万人を超えていました。
それをどうにかしたい、ぼく自身は本によって助けられてきた、ならば本をつくることで救えるいのちがあるのではないか、などという、若く青臭い理想を抱いていたのです。
そんなこんなで就活をして、出版社に潜り込むことに成功しました。

五年ほど勤めたでしょうか。
思惑と異なり、編集者みたいな仕事もするけど基本的には営業職、みたいな部署に配属されました。
全国あちこちを飛びまわって、さまざまな企業の経営者とお話しするのがメインの仕事でした。
たのしい部分もあったものの、基本的に激務で、精神的に疲弊していきました。
掲げていたはずの理想もどこへやら、たまさか空いた時間があれば、女性と遊興に耽るばかりの毎日。
こんな毎日がどこまで続くのか、と遠い未来を思って、どんどんと強まっていく虚無感。

そもそもぼくが人生をかけてしたかったことは、こんな仕事なのだろうか、こんな日々を送ることなのだろうか、という思いが、どこまでも消えてくれませんでした。
そして宗教に興味を持ちはじめます。
ちょうど大学時代の友人に浄土真宗のお寺の息子がいましたから、浄土真宗についても勉強してみます。
しかし、わからない。
ただ、お坊さんという生き方に対して、ぼんやりと憧れを持つようになりました。

そんなぼんやりとした現状への不満と先行きの不透明さが嵩じて、モヤモヤしたものをしばらく抱えることになります。
そして、睡眠が上手くとれないようになりました。
ある朝、服を着て出社しようとしたところ、靴下が履けませんでした。
悪い冗談のような話ですが、身支度がほとんど済んでいるのに、どうしても靴下が履けないのです。
その日は休みをもらいました。
次の日には、睡眠から覚醒しているのに、起き上がることができませんでした。
休みました。

上司から言われたのか、自分で思い立ったのか、記憶が曖昧ですが、心療内科を受診しました。
「完全にうつですね。休職しなさい」
言われるがままに休職し、当時京都にあった一人暮らしの拠点に引きこもりました。
しばらくすると、両親がぼくの異変に気づきはじめます。
心配をかけまいと両親には病気のことを隠していたのですが、ぼくからの連絡が途絶えたことで、母が心配のあまり、つくばから京都まで、様子を見に来てくれたのです。

そこから母に介護されながらの生活が始まりました。
半年ほどでしょうか。
徐々に外出もできるようになり、友人知人と会ったり、本もすこしずつ読んだりすることもできるようになりました。
その頃のことだと思います、なんやわけわからんな、と思っていた浄土真宗の教えが、ぼくのためにある教えのように思えてきたのは。
ぼくは自分を「デキる側」、「だれかを救える側」に位置づけていました。
しかしうつ病を経験したことで、自分はそんなに大したものではなく、救われるべき側なのではないか、と思いはじめたことが、浄土真宗に傾倒するきっかけになったように思っています。

例のお寺の息子から梯實圓という和上(和上は高位の学僧への尊称です)の法話の音源データを入手し、それを聴きながら散歩するのが日課になりました。
梯和上という和上さまは当時すでにご往生なさっていましたが、不世出の和上さまで、とんでもなく博識、かつ浄土真宗を体現するような生き方をしてくださったお方です。
そのお話を聴くにつれて、どんどん浄土真宗にのめり込んでいきます。
しかしぼくにとって肝心なところがまだハッキリとしません。

件のお寺の息子がちょうど京都にいたのを良いことに、ことあるごとに彼を呼び出しては、質問攻めにしました。
「浄土真宗では信心が大事っちゅうけど、信心ってなんや?」
「お前阿弥陀さんがほんまにおるっておもてんのか?」
「なんかキリスト教と浄土真宗、似てる気ぃするけど違うんか?」
などなど。
わからんことはわからんと言い、答えられる質問には真摯に答えてくれるその友人に、思い切って「お坊さんになろうと思ってんねんけど」と打ち明けてみました。
反対されました。
「浄土真宗ではお坊さんとご門徒さんは基本的に何も変わらん。お坊さんにもいろんなひとがいる。高い志を抱いてこの世界に入っても、失望するだけかもしれんよ。ひとりの信者として生きていけばええやん」
そんな内容のことを言われたと記憶しています。
「でも浄土真宗の勉強したいと思うねん。どこ行ったらええのん?大学院か?」
そう食い下がると、
「それやったら行信教校という学校があるから、まずはそこがええよ」
と教えてくれました。

このように書いていると、いかにもお坊さんになる決意が固かったように見えるかもしれませんが、実はそうではありません。
かなり迷いがありました。
将来の展望もなく、まったく未知の世界に、いままでのキャリアを捨てて飛び込むという決断を、なかなか下すことができませんでした。
そんなことを件の彼に相談すると、
「いっぺん行信教校行って先生に会うて相談してみるか?」
と言ってくれました。

面会は行信教校の午前の講義が終わって、昼食をいただきながらのものでした。
天岸淨圓先生(先生も和上なのですが、ぼくは「先生」とお呼びしています)です。
上に書いた梯和上の一番弟子です。
それ以前に勉強会でお話を聴く機会はありましたが、面と向かってお話ししたのは、この時が初めてでした。
その日は、いろんなことを相談しました。
うつ病のこと、仕事を辞めようか迷っていること、お坊さんになってみたいこと、浄土真宗がありがたいと思うがまだよくわかっていないこと、音痴なぼくがお坊さんとしてやっていけるか不安なこと。
先生は、そのひとつひとつに丁寧にお答えくださいました。
そして最後にひとこと。
「いまの時代にお坊さんになることは、決しておすすめはできへん。けど、もしそれでもお坊さんになると決めて、行信教校に来るなら、ワシが最後までキチっと面倒見たる」。
だいたいそんなことを言ってくださったと思います。
おそらくぼくは自分の決断に自信が持てずに、だれかに背中を押してほしかったのでしょう。
先生はそんなぼくを見抜いて、背中を押してくださったわけです。

そんなこんなで、ようやくお坊さんになる決断を下し、行信教校に入学します。
2015年の春のことだったと記憶しています。
行信教校の寮に入りました。
右も左もわかりません。
布袍(ふほう、と読みます。僧侶の略装です)の着方もわかりません。
お勤めの音程もわかりません。
お念珠の持ち方もわかりません。
お聖教の扱い方もわかりません。
そんなスタートでした。

行信教校は不思議な学校でした。
いまもそうです。
入学試験とは名ばかりで、試験に落ちることはありません。
現役の学生は三年間のカリキュラムがありますが、その後は研究生として、その気になれば何年でも居続けられます。
学生の年齢や経歴もさまざまです。
先生方も、教師然とはしておられず、「いっしょにお聖教を学ばしてもらいましょう」という姿勢を一貫させておられます。
講堂や教室にはご本尊があり、講義の最初と最後には、合掌礼拝をします。
寮生として生活していると、どんな時でも、どんなところでも、「なんまんだぶ」というお念仏の声が聞こえてきます。
教室や講堂から、部屋から、廊下から、お風呂から、トイレから。

ぶっちゃけた話、最初はお念仏の声に不気味さを感じました。
正直、気味が悪いな、と。
「なにこれ、宗教やん」と思いました。
いや、宗教なのですが。
しかし入寮後まもなく、寮での法話を終えた先輩が、寮の廊下でご自分にしか聞こえないほどの小さな声で「なんまんだぶ」と称(とな)えながら歩いているのを見て、「ああ、本気なんだな」と考えをあらためました。
べつにひとに聞かせるためにお念仏をしているわけではない。
自分に聞かせるためのものなんだな、と。
それ以来、ぼくもその先輩の真似をしてお念仏をするようになりました。
最初は恥ずかしいので小さな声で。

行信教校に入学してから、現役生の三年間は、ぼくの人生のなかで、もっとも熱心に勉強をした三年間でした。
高校受験や大学受験にはそれほど身が入らず、テレーっとテキトーにクリアしてきたので、猛然と勉強するのは初めての経験でした。
その原動力となったのは、先生方や先輩方のすがたです。
特に先生方。
仏さまの話をされる時、ニッコニコと笑顔で、たのしそうにお話をされる。
ズルい、と思ったのです。
ぼくもそんな世界を味わってみたい、垣間見たい、という思いで、必死に勉強しました。
するとだんだんと勉強するのがたのしくなってくる、たのしいから余計に勉強する。
天岸先生みたいになりたい。
そんな憧れが、ぼくのスイッチを入れ、駆動してくれたのでしょう。

気がつけば、入学当初に疑問に思っていた、「阿弥陀さんはほんまにおるんか?」、「浄土はほんまにあるんか?」などといった問いは、気にならなくなっていました。
すっかり浄土真宗に染められてしまったわけです。
いま、ぼくは、「必ずあなたを私の国に生まれさせ、私と同じく仏にしてみせるから、お念仏をしながら生涯を生き切ってくれよ」というご本願にしたがって「必ず浄土で仏になるとおもってお念仏をして生きていこう」と思っています。
こんな状況を浄土真宗では信心と呼んでいます。
いつからぼくがそうなったのかわかりません。
ただ行信教校にいる三年間のうちに、いつのまにか、そうなっていました。
先生方のすがたや先輩方のあり方、同期や後輩のみなさんがすこしずつ変わっていくありさま。
そんなものが、ぼくをすこしずつ育ててくれたように思います。

さて、浄土真宗の勉強があまりにたのしくて、大学院への進学を決めました。
龍谷大学の真宗学です。
同時に、研究生・寮生として行信教校に残ることにしました。
本来は寮生と大学院生は両立してはいけない決まりだったのですが、先生のおひとりが骨を折ってくださって、特例で認めていただきました。
行信教校と龍谷大学の二足の草鞋です。
それなりにたいへんでしたが、無事に修士課程を卒えることができました。
龍谷大学は、行信教校とはまったく雰囲気や文化の異なる学校で、お念仏のまったく聞こえてこない学校です。
「親鸞」と呼び捨てにし、お聖教も単なる文献のひとつとして扱います。
行信教校純粋培養のぼくは、最初こそアレルギー反応を起こしましたが、いまでは「そういう立場もあっていい」と思えるようになりました。

修士論文がそれなりの評価を受け、気をよくしたぼくは、博士課程への進学を決めます。
そして何本かの査読付き論文を書き、博士課程を満期退学し、あとは博士論文を書き上げるだけ。
上手くすれば非常勤講師として潜り込めるかもしれない、という目論見を持っていました。
しかしそんな矢先にうつ病が再発。
課程博士を取得するという算段が潰えることになりました。

うつ病が再発した事情についても書いておこうと思います。
実は行信教校にご縁をいただいてからも、ちょくちょくと調子を崩すことがありました。
短ければ一ヶ月程度、長ければ半年ちょっとの休養を要していたのですが、今回のうつの波は本当に大きかった。
家族とすら話すことはおろか目線を合わせることすらできず、ずっと自室に引きこもりっぱなしの一年ちょっとを過ごしました。
なぜこんな波がやってきたのか、原因と対策をすこし綴ります。

行信教校はすばらしい学校だ、というようなことを書きました。
もちろんそうです。その考えは変わりません。
さまざまな年齢や経歴の方がいらっしゃるとも書きました。
しかし他方で、お寺の息子さんや娘さんが大多数を占めることもたしかです。
そういう方のなかには、親に言われたから来ただけ、浄土真宗に興味関心もなければ、向き合うつもりもない、という方もいらっしゃいます。
お坊さんにも、さまざまな方がいらっしゃるのです。

そういう方々に対して、ぼくは隔意を持っていました。
浄土真宗に無理に興味を持てとは言わん、しかしお坊さんとして生きていくつもりならば、せめて向き合おうとはせえよ、と思っていました。
というか、いまもすこしはそう思っています。
もちろんお寺に生まれた者にはお寺に生まれた者にしかわからない苦悩があり、お寺を継がなければならないというプレッシャーは大きなものがあるのだろうと想像はします。
しかし継ぎたくないのなら継ぎたくないで、親と喧嘩すればええだけやないか、ぼくは母の反対を押し切ってこの世界に入ってきたぞ、とも思ってしまうのです。
そうそう、上では書きませんでしたが、お坊さんになることを親に伝えた時、母に泣いて反対されました。
そんな事情もあり、浄土真宗という教えに対して真摯に取り組んでいない(ようにすくなくともぼくのええ加減な目線から見えている)ひとには、厳しいことを言ったりもしてきました。
だいたいお寺というものはご門徒さんのご懇志によって成り立っているものです。
いまこうして学校に通わせてもらっているのも、元をただせばご門徒さんのお金やないか、せめてそれを意識するようにはせえよ、と。

ご法話が苦手、という寮生がいました。
そのお方は、最低限の課題だけこなして、この学生生活をやり過ごせばいい、と考えているようなお方(というふうにぼくには見えているお方)でした。
そんな聞き方をしている(とぼくには思えていた)ものですから、ご法話も、どこかの法話本に載っているお話をそのままするしかありません。
そもそも人前で話すのが苦手、という特性もお持ちでした。

当時、寮の改革に取り組んでいました。
その課題のひとつとして、寮の法話当番についても議題にあがりました。
寮生の数が減っていたこともあり、法話の当番がまわってくるペースが上がり、寮生一人ひとりにかかる負担が大きくなっていたのです。
ぼくはご法話のご縁がそれほど苦痛にならないタチなので、ぼくが法話当番を担当する機会を大幅に増やして、法話当番がまわるペースを落とす案を提示して、寮生みんなの了解を取り付けてまわりました。
いわゆる根回しです。

ご法話を苦手としていたその寮生にこの案を提示したところ、拒否されました。
というより、法話自体をしたくない、という意見のようでした。
それもハッキリと言ってくれないので、よくわかりませんでしたが。
ともあれ、睡眠時間と勉強時間を削って寮の改革案をいろいろと考え、毎晩お酒を飲みながらいろんなひととコミュニケーションを取り、さまざまな意見を吸い上げて資料を作成したぼくは、かなり疲れており、イライラしていたのだと思います。
そこへきて、法話当番自体がイヤ、などと言われたものですから、カッとなって、「そんなに法話がイヤなら、坊さん辞めてまえ!」と叱責しました。
お酒を飲んでいたので、勢いでその後もかなり厳しいことを言ったと思います。

その後、そんなことがあったと先生の耳にも入ったようで、「あんたそれは言い過ぎやで。もうちょっと言い方とか考えなあかん」と言っていただきました。
それもそうだな、と思いましたので、次に集まりがあった場では、違う言い方をしました。
「法話というのは、お坊さんやっていくなかで避けては通れないものなんだから、いまのうちに練習しといた方がいいよ。どうしても法話がイヤ、浄土真宗に向き合えないというなら、お坊さん以外の道だってあるんやし、広い目線で考えてみたらどうですか」と。
それもお酒の場でした。
翌日、そのお方が失踪しました。

彼が寮からすがたを消してしまった、という第一報を聞いた時には、それほど動揺しませんでした。
というのも、以前にも彼は誰にも言わずにふらっとすがたを消して、実家に帰っていたことがあったからです。
ところが一日経ち、二日経ち、一週間経ち、ご実家のご家族も連絡が取れない、という状況が明らかになってから、だんだんとこわくなりました。
最悪の場合をどうしても考えてしまいます。
言葉でひとを殺してしまったかもしれない。
すくなくとも、ひとの心を殺してしまった。
とてつもない後悔が襲ってきました。
眠れなくなりました。
先生から「あんたそれは言い過ぎやで」と言われていたにもかかわらず、ふかく考えもせず、似たような趣旨の言葉を放って、ひとの心を切り刻んでしまった。

それからほどなくして、ぼくの心は崩れました。
涙がとまらなくなりました。
「ここ(行信教校)でなに聞いてきてん」と、情けない自分を責めることしかできなくなりました。
そのあたりのことは記憶が曖昧になっています。
とにかく、寮を出て、ちょうど大阪に帰ってきた父母とマンションで暮らしはじめました。

仏教徒とは仏さまというあり方を尊敬する者のことです。
尊敬するということと、みずからがそのあり方を模倣しようとすることは、同義です。
つまり仏さまというあり方をみずからの身の上に実現しようともがく者を、仏教徒と呼ぶのです。
浄土教はやや事情が特殊ですが、基本的な精神は同じとみてよいでしょう。
仏さまとは、端的に言うならば、慈悲の精神を完全に体得されたお方です。
慈悲の精神とは、これも端的に述べるなら、他者を悲しませないこと、そして他者がたおれているなら、その者を立ち上がらせ、ふたたび歩けるようにすることです。

失踪されたお方に対するぼくの言動は、およそ仏教徒らしからぬものでした。
慈悲の話を聞いて感動し、揺り動かされ、みずからもそのようでありたいと願う仏教徒を自称しつつ、してはならないことをし、言ってはならないことを言ってしまいました。
仏教的に言うなら、破和合僧、なごやかな仏教徒の集いの和を乱し、破壊すること。
五逆罪のひとつです。地獄行きです。
凡夫というのはかなしいあり方だなあ、とあらためて噛みしめます。
「煩悩具足の凡夫と言われたら、なにか被害者であるような錯覚をしてはるひとが多いんとちゃいますか。違いまっせ。凡夫というのは、自分勝手な物の見方で他者を悲しませ、みずからを傷つけてやまない者のことです。凡夫性の自覚というのは、加害者性の自覚なんです」
だいたいこんな内容だったと思います。
天岸先生の言葉が思い合わせられます。

浄土真宗の救いは、犯してしまった罪を帳消しにしてもらうことではなく、その罪を引き受けてなお、立ち上がることができるように育てるものである、と考えています。
正直なところ、まだ罪を引き受けることはできていません。
失踪されたお方の生存確認はできているとのことで、それだけは僥倖でした。
本来なら仏教徒を名乗ることすらできないぼくですが、親鸞聖人がおっしゃるには、本願を信じて念仏をして生きているぼくは、真の仏弟子だそうです。
ぼくみたいなもんにはもったいないなあ、と思います。
せめて真の仏弟子という称号にふさわしいように生きていきたいと思います。
そこで、これから気をつけたいことを書きつけておきます。

第一に、自分がみずからこの道を選んだことについての過剰な自負心を捨てること。
ぼくが浄土真宗に出遇い、行信教校というすばらしい学校にご縁ができたのは、たまたま、なのだと思います。
ぼくはたまたまご縁が整ったから、浄土真宗の教えに素直にうなずけたけれども、生まれが違えば、環境が違えば、経歴が違えば、状況が違えば、教えに対して聞く耳を持たなかったかもしれない。
他者の他者性への想像力を忘れてはいけないな、と思います。
他者はいつの日かのぼくのすがたなのでしょうから。
べつにぼくが立派だから浄土真宗を素直に聞けるようになったわけではない。
ぼくが賢いから教えにうなずけるわけではない。
ぼくがお寺の生まれじゃないからご法義をよろこべるわけではない。
ぼくが、ぼくが、という思いをできるだけ離れたいと思います。
不思議なご縁としか言いようのない何かに導かれて、ぼくは浄土真宗に出遇った。
同じものが他者のうえにもはたらいている。
ならばそのひとのご縁が整うまで待てばいい、できればそのひとの良きご縁となれたら最高、くらいの腹づもりでいたいなあ、と思います。

第二に、お酒をやめること。
ぼくはお酒が大好きです。
いや、大好きでした。
お酒はいいものです。お酒の場もいいものです。
しかしお酒の場はともかく、お酒はぼくには合わないと気づきました。
ぼくには酒乱の気があるようで、雰囲気のいい飲み会ならともかく、コンディションが悪い時にお酒を飲むと、失言、放言、暴言などをする傾向が大いにあります。
このたびしでかしたことも、お酒の場でのことでした。
今後は、一切お酒を断とうと思っています。
断酒してから何度かお酒の場に呼ばれましたが、それでもぼくはたのしめるようです。
なにより、後悔することが減りました。
心配事も減りました。
断酒、おすすめです。
仏教の五戒のうちのひとつは不飲酒戒(ふおんじゅかい)です。
浄土真宗としては用事のないものですが、釈尊の大切な教えでもあるなあ、と感じます。
これも天岸先生ですが、「戒は慈悲の結晶や」とおっしゃったことがあります。
安らかに生きるために、穏やかでいるために、守った方がいいものなのでしょう。

第三に、仏教徒以外のひとと触れ合うチャンネルをつくっておくこと。
行信教校で天岸先生がよく「この異常な空間で」とご注意をくださいます。
仏教を尊いものと受けとめる集団で構成された、阿弥陀さまを仰ぐのを生活の中心とすることが当然だとされるような空間は、たしかに異常な空間です。
現代を生きる大多数のひとは、仏教のことを思い出さない日の方が多いでしょう。
なぜ阿弥陀さまを拝むのか、礼拝することがどんな意味を持つのか、など考えたこともないひとが多いはずです。
ぼくもそういう大多数のひとりだったはずなのに、異常空間にながく身を置いたおかげで、すこし周波数がズレてしまっている感があります。
そのことが今回の舌禍事件の遠因となったのではないか、とにらんでいます。
長らく放置していたX(Twitter)をちょくちょく覗き、倉庫のバイトをつづけるモチベーションにしていこうと目論んでいます。

いやはや、思いのほか長文になってしまいました。
頭のなかを整理するために書きはじめたのですが、ぐちゃぐちゃの頭のなかをそのまま活写したような感じです。
ここまで読んでくださったお方は、ようこそでした。
ありがとうございます。

釋圓眞 拝
南無阿弥陀仏

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