悪者は誰か。
2020/12/07 野元義久
悔しいほどの貴重な機会。
日本プロセスワークセンター主催の連続講座
「オンラインで学ぶワールドワークの実際~ルワンダの和解のプロセス」
に参加しました。
ルワンダで続いた(近隣国ではまだ続いているとも言われている)ジェノサイド”民族を滅ぼすほどの大量虐殺”。ツチ族とフツ族を中心とする紛争。
その和解を誘うワールドワークというプロセスについて、
実録画とファシリテーターの事後解説で学ぶという講座。
貴重すぎる…
これほど緊張感の高いテーマはきっと経験できない(参加者もファシリテーターも、身の危険があり得る場)。そしてファシリテーターは私の師匠の師匠の師匠レベル。
そもそも他者のファシリテーションを解説付きで学べる機会は数少ない。そんな貴重な機会でも、結局、私が学べるのは「私がわかる」あるいは「感じられる」領域に留まってしまうことは悔しくてならない。
言葉に尽くせない感覚に溢れたが、記憶のために残してみたい。
ジャッジの前提は物語。
「ジャッジとは何か」
社会には善悪という前提に基づいたルールがある。
緊張し過ぎずに生活するためにはルールがないと大変で、もし、すれ違う人ごとに敵か否かを判別する全感覚を働かせたなら家から300mくらいで疲れ果てるはず。
私はルールに守られている。ルールが行動の適不適をジャッジしてくれている。
その適不適を常識として備えている(つもり)。
ジャッジは評価。
評価は”価値を評す”と書くが、
果たして、誰が?何をもって?評しているというのか。
小さな頃から「あれが悪」という物語を教え込まれ、敵意、怨念を持つまでにジャッジをすり込まれた人にとって殺戮は正義だった。
この物語は世代を超えて強固な善悪となる。自分が評しているのではなく、もっと大きなものに支配されている。物語に支配されてしまった、という観点からは「被害者」と言える。
その物語を最初に始めた人にも自分なりの正義があったのでしょう。無自覚だったかもしれないけれど。何らかの前提を置いて、ジャッジをスタートした。その結果の一つがジェノサイド。
この前提を理解していないと善悪の裁きに留まる。
昔話を逆サイドからみた本も売れているらしい。この観点を持ち、互いの人間としての前提を掘り下げていくプロセスがワールドワークという手法である。
企業組織でも同じ。
例えば企業の人事評価は、その組織が願う成果に出来るだけ早く確実に辿り着くことを支えるツールである。組織の中の経済合理の元で軸が定められている。ある意味、それだけのことであることを忘れてはいけない。
「あいつは使えない」とか「悪」とか「ガン」とか「ポンコツ」と軽々しく評する言葉を聞くことがある。
30年ほど前の職場では、「あのお客さんがプーだから」という失注理由が蔓延していた。それを聞くたび後輩に「おまえがプーじゃ!」と返していた私もプーである。
時に立ち止まったほうがいい。
あくまで一つの前提に基づいている評価であって、決して誰も全人格的にポンコツなのではない。
評価者としては、ある方向から光を当てた時のある基準の行使に過ぎないということを自覚し続けたい。
小学生を迎える息子に、社会のルール(常識と呼ぶ)を教えたり教えられたりしている。
“〇〇はいけないんだよ”という答だけでなく、“なぜ、そうなのか。何を大切にしたのか(捨てたのか)”を添えないと単なる記憶テストになる。ヘイター予備軍を育てたくはない。